能代役七夕 制度 ①

 


現在旧市内中心部で割り振りされている五丁組によって毎年(旧暦)7月7日頃に 『時折、何かしらの障害がある時新暦8/6・7の日に限らず運行される年もある。又中止になる時もある』 行われ、五丁組の輪番制で当番を交代しており、当番を受け持つ大丁(おおちょう)とそれを応援する加勢丁(かせいちょう)として参加運行される。これは各町内の名によって○○若と呼ばれる。運行直前には手木の号令の元<音頭上げ>を行い出発する、運行中は<道中ばやし>のお囃子に合わせて「わっしょい わっしょい」~「ちょーれー ちょーれー ちょごれごれごれん、ちょごれごれんれんれん」 などと声を掛ける。大方の隊列は順番に先頭に高張提灯(たかはりぢょうちん)を掲げ~田楽{半纏(はんてん)を着た子供がサンダラボッチを使って担ぐ}、太鼓{晒(さらし)を巻いて白短パン、足袋姿で3人一組で叩く}、半纏、雪駄の恰好で横笛を吹く}、若長{浴衣に雪駄を履いてブラ提灯を掲げて歩く}、の順に続いて若者.引き手50人以上で、シャチの乗った城郭型の大若燈籠の山車を綱で引っぱる(山車には担木若長の人が乗車する)燈籠上部には鯱を挟んで前後に鯱倒し各3名が載っている。燈籠横前には竹で細工した4.5mの差し又四本を2本一組で入れ替わりながら電線を挙げている。差し又の人員は1本につき基本2名である。 山車が馬車や台車に変わると共に台車の方向転換する為の舵を操作する役目の舵取り 2.3名が操作してついている。



その後は総務相談役顧問後見をそれぞれ乗せた車が列をなして旧市内を練り歩く。《昭和初期までは、大若とは役七夕における役付けがしっかり執り行われている町の七夕組織を大若と称していた、若者だけもしくは若長だけで規模が小さく組織されたものを中若もしくは小若と称されていた、また役七夕の当番組以外、役七夕運営期間外に引き出す灯篭を○○小若と称していた。(注 大町が七夕等で使用する大若とは意味合いが異なる)》 [昔は《親しみ丁》と言って当番組以外の丁内と物の貸し借りや人の往来をした親しみ町制度が有りその当番組の町内を手助けをした、他の町内が入り込めない暗黙の取り決めが存在していた 又、清若と柳若は昭和初期から昭和30年まで親しみ丁でそれぞれの当番組の時も組自体での参加交流もあった。]



現在は人の交流が複雑化して、正確には親しみ町制度は廃されているが、それに似た町内間の交流が存在している] 若者は縦長の筒状型のキバ(騎馬)提灯、若長等は持ち手の棒にぶら下げられた丸型のブラ提灯を持つ。それぞれの提燈にはその町内の紋様印が描かれている、清若だけは無地である、また提燈の持ち手の役付名が施されている物もある。