能代役七夕 灯篭

 


燈籠は杉の角材を組み、それに竹を三分、五分等に割り格子や袋状に編み取付細工作り上げたものに、七夕紙(障子紙)を貼って蝋書きに染色を塗り書き混んだものである、又燈籠の明かりは電球を使用している、昭和初期まではロウソクで明かりを灯していた。燈籠の構成は担木(台車)の四つ角に大丁名もしくは加勢と記した大田楽を飾し、担木の後方中央の組支柱へ、下から富を表す牡丹を描いた<台燈篭>、郭のを描いた<幕燈篭>、堀を表す池のを描いた<波燈篭>又は船形で海の波を描いた<船燈篭>、を描いた<花燈篭>、を描いた<松燈篭>、高さを表すを描いた<雲燈篭>、上部には石垣を描いた<岩燈篭>、で構成され組み上げられる、花燈篭、松燈篭の中央には産土神社、美人が武者絵なども描かれた額絵がある。岩燈篭上部には四ッ角に小さなシャチを乗せた<隅御殿>、前方に<前御殿>、後方に<奥御殿>があり、更に最上部中央には<本丸御殿>に一対の大きな<>が取り付けられている、<最上部の鯱は電線を避ける為に本御殿の継ぎ目から後ろへ倒れる様に細工されている>また、現代は鯱の上部真ん中に、ひよし産土神社より祈祷戴いた御幣とその下にキバ提灯を掲げている。以上を担木(タギ)に乗せ曳きだす。シャチの目を描く際には人々の健康や安全などを祈願して入魂式を行う。大丁のシャチは常に空を向く尖った、尾ひれ<通称:角鯱~ツノシャチ>だが、加勢の町内のシャチの形は、雲龍<通称:雲鯱~クモシャチ>である。《※担木とは曳きだす台座のことで、大昔に燈籠を御神輿の様に担いでいた、なごりの通称で 正確には木車の山車のことである、昭和31年よりほとんどの場合、ゴム輪の馬車、台車が使われている》※他に台車に燈籠を取り付ける為に台車の後部真ん中に四本柱の組支柱がある、この支柱のこともタギとも呼ぶ。



●≪いろいろな文献や絵、画等々を紐解くと城郭型の燈籠が登場したのは天保紀(1830~1844年)頃亦は以降で、当番年を受け持つ町内が城郭型の燈籠を曳き出した様である。明治後期までは加勢町内はさまざまな趣向を凝らした灯篭(酒樽に鯛や大亀に猩々を乗せたものや、五重塔、凱旋門、地球儀にトンボ、等々)を製作していた。現在の大丁が角鯱型で加勢丁が雲鯱型に形式確立固定化されたのは明治後期以降になってからである。当然ながら今の鯱流しでは無く、以前は多種多様な形の燈籠の上部を川に浮かべ燃やして弔っていた≫



江戸末期・明治時代には高さ五丈(16m)の城郭型灯籠が作られたという記録がある。が、近代以降電線等により、現在は高さを制限せざるを得なくなり、シャチを倒して5.5M内、上部のシャチ部分を電線の前で倒しながらくぐり通っている。シャチを起こして<約8.5m9m>又横の太さは松燈籠か雲燈籠あたりで<約4.5m前後>になる。