鎌倉時代中期になると、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。仏教優位に不満を持っていた神道側が仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢外宮の神官である度会氏(わたらいうじ・明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官を世襲した氏族)は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢渡会神道の基盤を作った。
また、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義を流用し、神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠(ゆきただ)・家行(いえゆき)により、それらが体系づけられた。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗の側からもこれに同調する者が現れた。慈遍(じへん)は『旧事本紀玄義』(くじほんぎげんぎ)や『豊葦原神風和記』(とよあしはらじんぷうわき)を著して神道に改宗し、良遍(りょうへん)は『神代巻私見聞』(じんだいのまきしけんぶん)や『天地麗気記聞書(てんちれいききぶんしょ)』を著し、この説を支持した。吉田兼倶(よしだかねとも)は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。