仏教における解脱

よく解脱するというと、超能力を得る神秘体験をすると言われるが、仏教においてはそれらを解脱とは呼ばないようである。解脱とはこの世の世俗的な束縛からの解放であり、自由な境地を獲得したことである。つまり、「私は○○だ、私はこれほどの事を為したから、あのような結果があって当然だ、こうあるべきだ・・・・・・」等々の世俗に纏(まつ)わる囚われからの解放を意味する。したがって、目の前に起こった出来事がどんなに自分にとって不都合であろうと甘んじて受け入れるという、そうした精神を持てることが解脱という。


仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)と倶解脱(くげだつ)の別を説く。

§ 慧解脱 - 智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧を得ていることをいう。

§ 倶解脱 - 慧の障りを離れるだけでなく「」の障りをも脱していることをいう。

また、心解脱と慧解脱を説く。

§ 心解脱 - 心に貪著を離れること。

§ 慧解脱 - 無明を離れていること。

あるいは心解脱と身解脱という。

§ 心解脱 - 精神的には既に解脱していても、肉体的にはどうにもならない束縛を持っている場合をいう。例えば釈尊の成道(じょうどう)後の伝道生活の如きである。

§ 身解脱 - 完全に肉体的な束縛を離れているのをいう。


自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難しい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。




諸宗教・宗派間の解釈の違い

仏教以外のインド一般の教えでは、輪廻からの離脱であるからむしろ空相的世界の意味が強く、仏教の場合も、部派仏教では無余涅槃を究極の目的としており、身心都滅(しんしんとめつ)にして初めて解脱であるから、空相的な意味が強い。しかし、後の大乗仏教では解脱といっても、無住処涅槃の理想からいえば、生死にも涅槃にも囚われないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、実相的な意味あいである。