仏教の悟り(さとり、覚り)は、原語のサンスクリットでは、bodhiボーディである。日本語・漢語では「菩提(ぼだい)」「覚悟」「証(しょう)」「修証(しゅしょう)」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「道(どう)」などの別称もある。



真理(法)に目覚めること。迷いの反対。さとりは初期仏教から部派仏教あたりまでは究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫煩悩に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。

大乗経典では、それ以前の教義と峻別するために「覚り」を超えるものとして「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)」「無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を措定している。

悟りの意味の違いが宗教・宗派の違いであるということもできるが、般若経などでは、「覚り」と「悟り」は別のものとして使い分けられており、現代日本の仏教界(この記事を含む)では混乱して使われている。