辻斬りさんちのさくらさんのブログ

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 先生には、奥さんがいらっしゃるのだ。それは以前よりわかっていたことで、大変仲の良い夫婦だということも承知していた。


「すみませんね、こんな遅くまで」


「いえ、どうせ家に帰っても誰もいませんから」


とても素敵な奥さんで、私はとてもかなわないこともわかっていた。今日が締め切りだというのに、原稿を書き上げてない先生のもとへ伺ったのだが、先生のもとへ来るまでのあの、うかれた気持ちはどこへやら。


奥さんをみた瞬間、しぼんでしまった。


「林道(りんどう)さんも、女の子なのだから夜道は危ないわ。それに、主人が悪いのだし」


大変、優しい人だ。同じ同棲の私でさえ、思わず見惚れてしまうほどに、色が白く、豊かな胸は私にはないものだ。


「そうだ!一緒に食事でもどう?主人もそろそろ休憩すると思いますから」


私のために言ってくれるその言葉がつらい。


「ね、あなたもそう思うでしょう?」


いつの間にか先生が玄関まで出てきていた。さっきまで、ペンを握っていたのか手は黒い。インキがついたのだろう。それは手だけではなく、頬にまで付いている。おおかた、思考している途中でうっかり、ペン先で顔をかいてしまったのだろう。


それは先生の思いつめている時の癖だった。


「なんだ、君。まだ玄関先で話していたのか」


先生は髪をかき上げながら私をみやる。三十五になったばかりの先生はまだとてもわかく、白髪も見当たらない。


「あなた、その言い方はないでしょう。林道さんはあなたを待ってらしたのですよ」


奥さんにたしなめられると、先生は居心地の悪そうに首をすくめた。


「いいんです、気にしないでください。玄関で、といったのは私なんですから」


そういいつつも、私の視線は奥さんではなく先生の頬に注がれていた。

ああ、私があの頬に触れインキをとってさしあげることができたら…。


「あら、あなた。頬にインキが…」


ハンケチを取り出し、先生の頬をぬぐう奥さんが嫌い。


優しい顔で、奥さんは私の心をぐさりぐさり、と突き刺してくる。「あなた」と呼ぶその声で、当たり前のように触れるその手で…すべてが私の心の臓をえぐるのだ。


「まだ、書き上がらないでしょうから今日は失礼します。明日の午後には取りにまいります」


これ以上みていられなくて、早口ですませ先生の家を後にした。


「う、くっ…ふ」


抑えきれない思いはすぐに滴となって、私の頬に滴りおちた。



つまるところ、私は先生が好きなのだ。