古くから日本人は天皇家を中心に、家族や親戚は勿論、友達、隣人、教師、様々な人と和合して暮らしてきました。
町ぐるみ村ぐるみで子供を育てたり、皆と協調し、畑を耕し、米を育て、嬉しいことも悲しいことも楽しいことや辛いことも皆で分かち合い、暮らしてきました。

 派手さが目立つ単純な西洋の文化とは違い、慎ましやかで曖昧です。しかし曖昧に、言い換えれば繊細に、隣人の気持ちを察する事に長けた和の文化です。

 

 この我々の誇るべき和の文化、様々な民族や思想が混沌として渦巻く、多様化した現代社会に世界に平和をもたらす為に必要不可欠な一つ要素であるこの和の文化は、しかしながら共産主義や社会主義の目指すものと、本当に屈辱的だが、構造か非常に似通っている。協調するということ、同じことするされるということ、それが左翼思想の平等観とほとんど変わらない。

 この和の文化故に、我が国日本では左翼思想が入り込みやすいと言える。そういう血が我々のなかには流れている。左翼的な血液が。

 かつてもドイツに倣い日本は国家社会主義体制を取り、天皇陛下の下に平等に過ごしてきた。(実際は軍部の暴走による独裁であったが、それでも彼らの中心は天皇陛下であった)

しかし、その性質は、左翼思想の目指す平等とははっきりも違いました。



 我々の和の文化の基盤となったものは、家族です。血と血で永遠につながった、何よりも強い、切っても切れない絆です。そこにはお金で買うことのできない、暖かくて、しかし時に残酷で、しかし崇高で、しかし当たり前に本来人間にとってどんなものよりも必要な愛があります。

 ですが左翼思想には家族も他人も年上も年下も人種も区別しません。なぜなら平等だから。ですから人を尊敬するという概念がありません。この思想には物と社会的地位の平等のみが掲げられています。そこに心はありません。道徳はありません。個性はありません。人格を認めません。理性はありません。多様な価値観に流されて次々に善悪の区別もつけずに平等にしていきます。それは平等などではなく、無法地帯です。物だけの平等、外面だけの平等です、中身は空っぽです。見てくれがいいだけの粗悪品です。機械的です。果たして人間は機械でしょうか。
 心から愛する人が自分の為に丹精込めてつくってくれたご飯と、餌を与えられるように他人と同じものを同じ様に配給され、同じ様に食べるご飯とではどちらが美味しいのでしょうか。どちらの方が心が満足するのでしょうか。

戦後、この和の文化はほとんど破壊されました。GHQによって。天皇陛下を中心とした日本のこの文化がアメリカにとってはとても邪魔だったのです。自分たちより劣っていると見下しているジャップに脅かされたことを当時は恨んでいたのです。(今の事はどうだか知りません)東京裁判がその復讐の場でした。そしてそれだけでは飽き足らず自由主義によって礼儀も作法もアイデンティティも奪いました。間接的に植民地化したのです。(負けてしまったから仕方の無いことではあります)
 GHQによる間接統治の後も日本はアメリカを見習って様々な改革を行ってきました。それらが間違っていたとは言いません。大体正しかった。真面目すぎる故、今まで保守的過ぎた日本には必要なことでした。

 しかし、教育の自由化だけは行うべきではなかった。自由と無法地帯は紙一重です。我々は自由によって道徳という人間の軸を、良心を失いました。

 道徳がないという点では左翼思想と同じです。そのうち破滅します。今も破滅への道を歩んでいます。協調性も意思もなく技術に縋って、スマホばかりいじってやるべき事から逃げる若者が溢れています。自分には関係の無い事だと思い込んで世界のことを知ろうとしません。メディアに流されています。平和な、この日本が当たり前でこれからも続いていくと信じている。本当にそうですか?    


今、参議院選挙が近付いて来ています。この選挙は天下の分け目です。アメリカでも今大統領選が行われています。そして中国もとい中国共産党の動きが活発化している中、学業に勤しむべき年齢にあたる。まだまだお子ちゃまの18歳高校三年生にも場合によっては夏の参議院選挙で投票することができてしまいます。
世界の、日本の、家族の、友達の、自分をより良くするために、どうか騙されずに、様々なことを知り、奢らず客観的に批評しなて投票してください。一票じゃ何も変わらないとは思わないでください。レースでは速い選手が勝つのではないのです、レースに出た選手が勝つのです。行わなければ、勝つことも負けることもできないのです。


世界が平和なら何かを知る必要もないのです。