やっぱりあの時は、修だったのかな。

今日を限りの命ともがな。





という和歌がありましたが。


全くもってその通りだと思います。





一番幸せな時に人生を止めるのが、幸せな一生に出来るのだと思います。




さっき、にゃーにゃにFAXを返しました。


その時に、「これ、どうしたらいい?」と

合鍵を出されました。


私は何も言わずに受け取りました。









京はもう、私と繋がりを断つ気なんだと思います。



私は、京に構ってもらえなくても、

何年後か、10年後でも、いつか必ず修が戻ってくるものだと思っていました。


でも、京は修が復帰するのを待っているわけじゃない。


本当に、京が「にゃーにゃ」として、京が「にゃーにゃ自身」として、この先ずっと生きていくのだと思いました。






死ぬのは嫌だけど、生きているのも嫌。


人生を止めたくても、そうする勇気がない。

今日もにゃーにゃからメールが来ました。

「自宅のFAXが調子悪いから、あげたFAXを使っていないなら返してほしい」と。

今回のメールの口調が、なんだか修みたいだった。

ほんとに修かどうかは分からないけど。



でも、修だとしても、前の修とは違うなって感じた。









私の愛しい人は、文面に面影を残すばかり。