中国、特に北方はとてつもなく乾燥している。

そういうところで羽根を打つとどうなるか・・・ものすごいスピードでシャトルが崩壊してゆく。みんな「今天球很脆(今日は羽根がもろいねぇ)」なんてブツブツ言いながらすさまじいペースでシャトルを消費する。今日は、じゃなくて冬は毎日もろいのだが。

一般論として中国の学生や教職員はそんなにリッチなわけではない。それでも中国でのバド人気はすさまじく、金持ちだけのスポーツ、とはいえない(日本と同じように金銭的な理由でバスケやバレーに転向した、という人も時々見るが)。このような情勢の中でも多くの中産的な人民が日本では考えられないようなブルジョワバドライフを送れている理由は二つある。

 

1.シャトルが安い。安いものだと55元(だいたい825円)くらいで一ダース買えてしまう。結構いいシャトルでも75元(1125円)。日本の三分の一・・・もっと安い?

 

2.シャトルが経費で落ちるっぽい。社会主義国の中国は給料が安い代わりに福利厚生が手厚い。いくつかの学生サークルに出入りしているが、「这学期球还能报销吧(今学期はシャトルまだ経費精算できるよね)」「买球要开发票啊(シャトル買うなら領収書出してもらえよ)」なんていう会話をちょいちょい聞く。サークル幹部に興味本位で尋ねたところ、どうも各学部や部署が構成員の健康維持用予算をもっていてそこからシャトル代を払い戻しているらしい。あと、経費落としとは違うが学内の小規模な大会でもスポンサーをいくつかつけて開催していた。学部内の小さな試合なのに全日本実業団とかで見るようなコート間の仕切り(広告入り)が配備されていてテンションが上がった。まぁ、元のコート間隔が狭いので実際に試合するとすごく邪魔だったが。

 

しかし、そういう経済面での背景があるとはいえ、やはり羽根がどんどん散っていくのを目にするのは、満開の桜が目の前で葉桜になってゆく光景を目の当たりにするようで心苦しい。そして日本でバドを競技としてやっていた人ならばおそらく誰もが先輩や指導者から次のような言葉を叩き込まれたのではなかろうか。「シャトルは全部職人さんが手で作っとるんやぞ」「そんな打ち方であひるさんに申し訳立つんかい」(うちだけかもしれない)

中国でもこの言い方をするのかどうかは知らない。だが、一つ確かなのは、シャトルの羽根はそんな悠長なことを言っていられないペースで折れてゆくことであり、その姿は仏教の諸行無常の教えを彷彿とさせる。

中国は儒教の国、という言葉は間違いではない。しかし、実際の民間の思想は明確に儒教・仏教・道教の三教合一であり、特に仏教・道教が占める割合が大きいことは思想史の世界では広く知られている。中国における歴史上のこのような民間思潮の展開はバドミントンの普及とも無関係ではあるまい。

 

(図:『韓熙載発球犯規図』五代南唐、宋模本、絹本彩色。サーブを打つ際にはラケットのシャフトが下を向いていなくてはいけないこと、ラケットヘッドがサーバーの腰よりも低くなくてはいけないことなどを説いた画作)

 

このような事情をうけ、中国バド界は一つの結論に到達した。

 

 

シャトル蒸し器

 

 

日本と比べて中国は蒸し文化が発達している。よく中華料理は脂っこいと言われ、一面としてはそれも事実なのだが、実は中国では揚げ物がかなり少なく(いわゆるフライは「日本料理」と認識されているきらいがある)代わりに蒸し料理が多い。

炊飯器を買うとデフォルトで蒸し器にするためのアタッチメントがついてくるほど、蒸すという行為は中国に浸透している。中国は蒸し器の国なのだ。

 

そして中国バド四千年の歴史の中でとうとう彼らはシャトルを蒸す技術をも開発したのである。

 

普段使っている体育館にもシャトル蒸し器は配備されており、「蒸一下球吧(ちょっと蒸してくるね)」と言ってみんな当たり前のようにシャトルを蒸している。シャトル開封→蒸す→打つ、という一連の動作が十三億の人民に広く浸透しているといえよう。

 

シャトルの筒から煙があがっている光景を始めて見た時は大変なショックを受けた。これがバド大国の底力か、と。

 

今のところ蒸してもあまり耐久性が伸びた実感がないことはやや遺憾である。北方は乾燥しすぎているのでちょっと蒸した程度では無駄なのかもしれない。ただ、日本で導入すればシャトルの耐久性をそこそこ上げることはできるかもしれない。安いものだと50元(750円)くらいから買えるのでおひとついかがだろうか?(もしかすると日本でも場所によっては使っているのかもしれないが・・・)