将棋雑誌というと将棋世界、近代将棋、将棋マガジン、将棋ジャーナル、将棋クラブなどを購入したことがあるが、詰将棋専門の詰将棋パラダイスを購入していた人は少ないのではないかとおもう。鶴田諸兄さんのお名前で、将棋世界や近代将棋に広告がでていたので、雑誌名は知っている人は多くても店頭での販売を行っていなかったので、手に取ったことない人が多いのではないか。学生王座戦の優勝メンバーの稲垣さんは学生時代から長年購入し続けていて、欠落なく40年以上の詰めパラを所有されていた。他の雑誌も含めて、処分を考えていて私も声をかけていただいた覚えがある。広い家に住んでいたわけではないので、その時はお断りした覚えがある。その後、安恵照剛八段の仲介で、弟子の加藤桃子女流三段(当時奨励会員)に活用していただいたようだ。稲垣さんは、処分後も詰将棋パラダイスは購入されていて、これについては、私が仲介して現役の将棋部に活用してもらっている。コロナウイルスが一段落したらご寄付いただいて我が家にある詰将棋パラダイスをまた部室まで届けようと思っている。

 大学時代に活躍すると学校名が記録として残るので、時代が違っても同窓生の活躍を確認することができるが、卒業して一般棋戦での活躍になると、同窓生が活躍していても気づかないほうが多いのかもしれない。

ということで、私の知って時代の方を一人紹介しておく。昭和44年に野田(理工学部)に入学された大村芳男さんです。今回、野田、神楽坂、葛飾を含めた将棋部OB会の組織化にご協力をいただいているのですが、野田の昭和40年、50年代のメンバーと大運河会という野田の将棋部のOB会組織をつくり活動されています。現在は宮城県在住で、東北地域の大学OB戦に秋田県在住の堀井邦明さんなどと一緒に東京理科大学OB(他の出場チームは当然東北地方の大学です)として出場されています。大村芳男さんは第19回シニア名人戦(平成24年)で全国優勝されています。

 関東大学将棋リーグ戦に昨年から東京理科大学将棋部と東京理科大学理工将棋部が合同で1チームになって参加することになりましたが、昔は神楽坂だけでリーグ戦に参加していました。理工学部ができたのは1967年(昭和42年)ですが、しばらくは、団体戦には参加いただいてなかったようです。昭和47年の学生名人戦で理工学部の湯浅正樹さん(昭和46年入学)がベスト16に入られたのをきっかけで、翌年だとおもいますが、団体戦に出場いただいたのが最初ではないかとおもいます。

昭和40年代からの個人戦の成績がありますので、参考に掲載させていただきます。

 

昭和42年度 (1967年)秋季全日本学生個人戦
内田(Best 8)、榎本(Best 32)
昭和43年度 (1968年)春季全日本学生個人戦
内田(Best 4)、 中根(Best4)
昭和43年度 秋季全日本学生個人戦
星野(Best 32)、 石川 (Best 32)
昭和44年度春季全日本学生個人戦
安江(32) 、中村(16)
昭和44年度(1969年) 秋季全日本学生個人戦
栗山(32) 、安江(16)
昭和45年度 学生名人戦    (この年王座戦で全国優勝)
稲垣(4)、 薮田(8)
昭和46年度 学生名人戦
稲垣(準優勝)、庄司 (32)、佐藤 (32)、牧野 (32)
昭和47年度 学生名人戦
湯浅(16)
昭和50年度 学生名人戦
佐藤(8)
昭和51年度 学生名人戦
佐藤(8)
昭和51年度 春季関東個人戦
山本(16)
昭和51年度 秋季関東個人戦
山本(8)、 堀井(32)、 厚朴(32)、 佐藤(32)

 理科大で大学棋戦で優勝した方はお二人います。1960年(春)と1961年(秋)に学生名人戦で優勝した大野清司さんと、1989年の学生十傑戦で優勝した渡辺俊雄さんです。お二人とも時代が異なり、私はお会いしたことがない。ただ、学生棋戦以外でも活躍されているので、棋譜をみることはできます。

OB会の会計で日本将棋連盟深谷支部長の新堀祐司さんが、ブログ(日本将棋連盟深谷支部長の独り言)で1960年12月10日の九段戦 山口千嶺(対戦時奨励会三段 2003年八段で引退)さんとの対戦。

1965年1月17日の白井米吉(1963年のアマ名人)さんとの都名人戦での対戦の棋譜を解説している。

 

前者が2020年4月4日のブログ 

 

 

後者が2021年2月9日のブログ

 

 

 

東京理科大学将棋部OB会のブログとともにお読みいただければとおもいます。

 理科大に入った理由の1つに授業料が安かったからと前に書いたが、これは同級生も同様だったようで貧乏学生が多かった。したがって、昼食は学食で、ラーメン、カレー、定食というのが定番だった。それでも時々は学食以外で食べた覚えがある。1軒は開店したてのトレド、数年前にフジテレビの日曜午後の番組ザ・ノンフィクションで、理科大の用地買収による移転の話で、継ぎ足しカレーが有名になっていたが、我々が食べていたのは、トレドライスで、豚肉、玉ねぎ、ピーマンなどを卵でとじた丼(と言ってもカレー皿に盛り付けられている)だった。後に店主いわくトレドライスは素人料理だったとのことだが、やはり学生時代の思い出の味である。

もう1軒は蕎麦屋の翁庵で、かつそばかかつ丼ライス(かつ丼の頭が別皿になっている)を食べていた。

ある日、クラスの仲間と食べに行って、壁にかかっている花巻そばがどんなそばかが気になり、店のおねーさんに聞いたことがある。返事は「注文すればわかるわよ」とのこと。今なら注文するところなのだが、当時は注文せず、何かで調べた覚えがある。答えはもりに対してのざる。かけそばに対して花巻そばという感じできざみ海苔が温かいそばにのっているそばだった。これを書くにあたってグルメサイトで翁庵のメニューを見てみたが今はメニューにはないようだ。

 私の入学した昭和47年には、王座戦で全国優勝したメンバーの稲垣さんが、4年で在学されていたが部室でお会いすることはあまりなかった。4年生でよく部室にいらっしゃったのが関渉さんで、白衣を着て実験の合間にきて、将棋を指されていた。私も毎日部室にいたほうなので良く指してもらった。

早指しの将棋で、今も埼玉県の大会などでお会いするが、棋風はまったく変わっていない。

昭和47年秋関東大学将棋リーグ戦の1日目のA級の中大戦で、関さんからでるように言われ、団体戦に初出場した。この時の理科大のメンバーが稲垣洋光(4年)平野隆一(4年)庄司憲世(4年)関渉(4年)大村昌利(3年)鈴木芳保(3年)(敬称略)中西進(1年)で、中央大学のメンバーにはこの年の春の学生名人戦を1年生で優勝した黒川紀夫さんがいたがメンバーの順番までは覚えていない。ただ七将が山内和久さんだったのは覚えている。山内さんとは、高校の将棋部(都立立川高校)で同級だったので覚えていて当然である。

将棋は、悪い将棋を逆転して私の勝利だった。現役で合格して2年生だった山内さんからしばらくは、この将棋に負けたので、レギュラーになるのが遅れてたと文句をいわれたのを覚えている。

山内和久さんは2年後の昭和49年の学生名人戦で準優勝している。

 昭和47年に私が理科大将棋部に入部したのは、第1回の王座戦優勝の記事(近代将棋か将棋世界)をみたのが、一番おおきかった。入学決まったあと、入学式前に将棋部の部室を探しあてて、将棋を指していた覚えがある。将棋部にはいるためには、理科大に入学しなければいけないが、入試の科目が化学科の場合、数学、英語、化学の三教科だけの試験だったので楽だったのが志望した理由である。理科系とはいえ物理は得意ではなかった。

もうひとつ理科大を志望した理由が、授業料が他の私立大学(理系のある)より安かった。入学してから卒業するまでの4年間で約55万円だった記憶がある。昭和47年の初任給の平均は52,700円、卒業した昭和51年の初任給の平均は94,300円であったときである。

現在の理科大を卒業するための4年間の学費を計算すると約550万円、令和元年の大卒初任給の平均が212,000円であるから、大学の授業料の伸びが約10倍で、初任給の伸びが約4倍であるから、学費は昔よりも高いという感覚なのだと思う。

因みに学生時代の学食のラーメンの価格は60円の記憶である。卒業してから学食に行ったことはないが、初任給の伸びからすると240円前後なのではないか?

 私の高校時代から大学時代には、まだチェスクロックは普及していなかった。昭和40年代に昭和薬科大学(世田谷)で開催された高校選手権では、判定というのがあって一定時間経過するとプロの棋士の先生により判定がされて勝敗が決まったこともあったように記憶している。関東大学将棋リーグではさすがに判定はなかったが、持ち時間はなく、試合進行上で一定時間を経過すると秒読みが始まる。近くにいる人が自分の腕時計を使って秒読みを行っていた。したがって不利になると指さずに秒読みになるのを待ってから逆転を狙うということもあった。

関東大学リーグは昭和51年までは、1リーグ6校だった。現在は1リーグ8校で、下位2校が下部のリーグに降格し、下部の上位の2チームが昇格する仕組みなっているが、1リーグ6校で行っていた時代には、入れ替え戦があった。A級の6位はB1に降格するが、A級の5位はB1級の2位と入れ替え戦を直接戦って次期の所属リーグを決めていた。

 

1リーグ8校になった昭和52年からの理科大の成績があるので、下記に記載しておく。

 

理科大将棋部関東大学将棋リーグ団体戦の結果 

昭和52年(1977年)~平成14年(2002年)
 

昭和52年度    春  A級4位   秋 A級7位
昭和53年度    春  (B級)      秋 A級2位
昭和54年度    春  A級7位   秋 (B級)
昭和55年度    春  (B級)      秋 A級2位
昭和56年度    春  A級3位   秋 A級6位
昭和57年度    春  A級5位   秋 A級7位
昭和58年度    春  (B級)      秋 (B級)
昭和59年度    春  (B級)      秋 (B級)
昭和60年度    春  (B級)      秋 A級8位
昭和61年度    春  (B級)      秋 A級8位
昭和62年度    春  (B級)      秋 (B級)
昭和63年度    春  A級7位   秋 (B級)
平成 1年度    春  (B級)      秋 (B級)
平成 2年度    春  A級4位   秋 A級4位
平成 3年度    春  A級3位   秋 A級2位
平成 4年度    春  A級4位   秋 A級5位
平成 5年度    春  A級8位       秋 (B級)
平成 6年度    春  (B級)      秋 A級5位
平成 7年度    春  A級5位   秋 A級7位
平成 8年度    春  (B級)      秋 A級7位
平成 9年度    春  (B級)      秋 (B級)
平成10年度    春  (B級)      秋 (B級)
平成11年度    春  (B級)      秋 (B級)
平成12年度    春  (B級)      秋 (B級)
平成13年度    春  (B級)      秋 (B級)
平成14年度    春  (B級)    



 昨年は、新型コロナウイルスの影響で関東大学将棋のリーグ戦は春秋とも開催されませんでした。授業でさえ構内で実施することができずにオンラインでの授業が多く、クラブ活動もなかなかいままで通りにできない状況が続いているようです。

私が高校時代、大学時代を過ごしたのは1960年代後半から1970年代前半になります。

この時代にはコロナウイルスの影響はありませんでしたが、大学紛争、高校紛争などがあり、授業に影響を受けた経験がある人があるかとおもいます。私も高校時代に高校紛争の影響を受けて授業が数か月できず、授業日数が足りなくなる可能性がでて、修学旅行を中止して、授業を行いやっと進級した経験をしています。

関東大学将棋の会場も、東洋大学(白山)拓殖大学(茗荷谷)などを覚えていますが、東大、早稲田、慶応、日大などへ行った覚えがありません。

関東大学将棋の大会の会場でさえ大学によっては、貸し出しを控えていて、大会の会場を探すのに苦労していた時代かとおもいます。

私が部長を務めていた1974年、当時の関東大学将棋連盟の理科大の幹事が理科大での開催を頼まれてきて、当時の顧問の教授に了解をとり、理科大で関東大学将棋の開催を始めました。

昨年は中止でしたが、2019年も理科大の神楽坂、葛飾キャンパスで関東大学将棋の開催が続いているようで、理科大での開催が伝統化しているようで、うれしく思っています。

 

榎本会長から古いノートとファイルを送っていただいた。内容は関東大学将棋OB戦に関係するものです。

これによると第1回の関東大学将棋OB戦は、昭和49年10月20日(日)に千駄ヶ谷将棋会館で開催と記載されています。出場は16チームで1校から2チームの出場が4大学、混成チームでの出場が4チームです。優勝は早稲田大学Bチーム、準優勝 慶応大学Bチーム、3位が東京理科大学(安江、井上、内田、栗山、鈴木)です。

ノートに各大学の出場者の名前が記載されているので、大学名と性だけ記載させていただきます。

 

早稲田大学 鈴木、相羽、飯野、金子、田中、梶原(寺上)大島、徳竹、大泉、勝又

慶応大学 近田、松浦兄、松浦弟、原、三神、昼間、今井、飯田、木島、久保田、高村

法政大学 鈴木、稲葉、川辺、久保、小島、大石、青木、山本、白瀬、菅田、

立教大学 後藤、寺井、滝井、石井、小黒、小池、広田、門脇、森本、岡本、石川、室井、松谷

東京大学 松井、原田、吉沢、宮崎、中島、伊藤、鈴木、古山、大場、中村、窪添、沼田、原田、藤田、伊藤

横浜国立大学 松井、古山、清水

東京経済大学 藤井、寺畑、島元

亜細亜大学 山本、斉藤

神奈川大学 立石、東、角川、和田、残間、椎野

千葉大 阿部

獨協大学 岡田

国学院大学 前田

東京理科大学 上記記載のメンバー

 (本文含め敬称略 手書きのものから転載しましたので、正確でないところがあるかもしれません)