カズオ・イシグロの6年ぶりの新作は、わかりやすい簡易な文体でAF(アーティフィシャル・フレンド)のクララの一人称で語られる。芸術家が、年齢を経るにしたがい技術を全面的に押し出したものとは対極的な、表面的な部分をすべてそぎおとした’コアにあるもの’を表現する作風に達するすることがあるが、イシグロもそこへむかっているんじゃないかと感じた。

 読みながら、日本の神話を思う
。太陽信仰、天照大神のもつ力。人には超えられない大きな力をもつ太陽が、この作品の底辺に流れている木がする。
 

 物語の舞台が、イギリスではなくアメリカと推測される。イギリスはリックの母親の故郷でほんの少しだけ触れられている。

「イングランドはどこもかしこもヘッジ(Hedges)で区切られている」と、リックの母親ヘレンはイングランドを懐かしそうに語る。AFを買い与える近未来文化がイギリスより妥当だからか。イギリス人がAFを子どもに買い与えるのを想像しがたいが、アメリカ近未来ならイギリスよりすんなり受け入れられるのはイギリスに住んでいるからだろうか。
 

 AFのクララは、自分を選んでくれたJosieが寂しくならないように、ひたすらJosieの幸せを考えて行動する。人間はAFを「マシーン」の1つと位置付けているが、その中でもクララとリック、クララとポールの関係では、人間とAFをこえた結びつきの一端が見られる。
 

 カパルディ氏との対話の中で、人の心の中にはAFでおきかえられないものはないとカパルディ氏は結論づける。それに反して ‘There was something special, but it wasn’t inside Josie. It was inside those who loved her.’と、Josieの父は語る。人との関係性の中で大切なものが育まれているし、人との関係性はAFにはおきかえられないのだ、と。
 

 ’There’s something unreachable inside each of us. Something that’s unique and won’t t transfer’ この一文にこの物語が集約されているのではないだろうか。

 
 根底に流れる悲しみ、愛するものを失うかもしれない母親の悲しみ、みんなを悲しませたくないジョーデイの悲しみ、AFが人の感情をとらえきれない悲しみが、私たち家族の悲しみとオーバーラップする。 人とは、死とは、家族とは、寂しさとは。人間の大きなテーマについて考えさせられる作品。
 

 ロンドンサウスバンクセンター主催のInsideOutライブストリームシリーズで、カズオ.・イシグロと娘で作家のナオミ・イシグロの対話が4月5日からストリーム配信中。(Kazuo & Naomi Ishiguro in Conversation, SouthBank Centre)