もうなにがなにだかよくわからない。ああ、へこむ。凹んだ。空回りしていることに気づいたときほどむなしい瞬間はない。もうあとの言葉は、ただの紙くず。くずくず。会話なんて自動で行える。意識なんていらない。これは自動でおこなえる。さきほどからこの文章だって、前に書いていることからただなんとなくにつなげているだけだ。まぁ、それなりに正当性をとろうとしているから、まだましな文章になっていることだろう。と思うけれど、変幻自在ってかなにが動いていくのか、動いているってどういうことっていう、ぼくってそういうこと考えるの苦手、苦手ってことはない。苦ってってどんな音がするのだろう。
どうして「君、恋したことないでしょ」という台詞がまずいのか、あるいは自分はよろしくない言葉と感じるかについて一から考えてみる。
(と、同時に、「君、本当の恋をまだ知らないのね」という台詞についても思いを馳せてみる)
まず、「君、恋したことないでしょ」というのは、「恋をしたことがある」と思っている人物である。
「恋をしたことがある」ひとから「恋をしらないひと」として認識されたという台詞だ。

ところで、つぎのような独白がある。
「そのとき僕はいまだ、これが恋であるということをしらなかった」
つまりは、恋であるということを理解できていたら、いいのか?
なぜおなじレッテルを貼るだけで安心できるのか。なぞである。

話を戻す。
これは言われた側の問題であろう。
言われた側は「恋をしたことがない」ということに対して引け目を感じる必要はない。

じつはこの問題は
「君、本当の恋をまだ知らないのね」という台詞のほうがわかりやすいのではないか。
本当の恋とはなんぞや。
言われた側は悩む。悩む。しかし、そんなものはない。
次に出会う恋のことを本当の恋だと思うかもしれないし、
以前であったひとのことを本当の恋だったと悔やむかもしれない。
しかし、そんなことはどうでもいい。
問題は、「本当の恋」といわれてもどうしようもないことだ。
途方にくれる引け目を感じるだけである。
教えるなら技術である。
具体性を持たねば意味がない。
抽象論のむなしさ。
同じ現象が起きていても、類型が違えば意味がない。
同じ現象に見えても、土台が違えばそれはまったく違う現象なのである。

うむ、台詞の正当性とは難しいものである。
けっきょく、なにも解決していない。

足し算が引き算になるという話。
この間はなしていまいち自分でも納得できなかったのだが、今日分かった。
つまり、こちらの演出意図を明確にするために、作品と観客との補助線をひくこと。
で、その補助線を増やすことで、作品意図が明確になる。
それを足し算だとするならば、客にとっては引き算になるはずだ。
そこで大事なのは、足し算をすることに伴って、というか同時に、
余分なものも明確になるはずで、それを排除することが必要だろう。