薄々思っていたのだが、どうにもコンプレックスには2種類あるらしい。


ひとつは本質的なコンプレックスである。例えば太っているとか毒舌だとかいう本人にはどうしようもないくさみみたいなもので、「コンプレックスは武器になる!」とか言われているのはこちらである。

もうひとつは「本質的なコンプレックスを隠す鎧がないコンプレックス」で、金が無いとか学歴がないとかがそれに相当する。はっきり言えば金が無いこと自体は魅力にはならない。金が無いからこそ生まれてくる魅力はあっても、金が無いことそのものは魅力になり得ない。なぜならこれは本質的なコンプレックスではないからである。


例えば金が無いのがコンプレックスだとしよう。彼には金を使って隠したいなんらかのコンプレックスがある。性格かもしれないし容姿かもしれない。しかし金が無いからそれを隠すことができない。彼はその時辛い。その辛さを金が無いことのせいにしているというわけである。ここで金に標準を合わせると苦しみが続くだけである。しかし本質のコンプレックスを認め、癒していけば表面の金が無いというコンプレックスもある必要が無くなり消えていくのである。


見分け方としては、前者は「自分は○○だから嫌だ」となる。後者は「自分は○○を持っていないから嫌だ」となる。所有と在り方は大きく異なる。自分の在り方に疑問を抱き恥じていればいるほど、自分のアラを隠すためにたくさん所有する必要が出てくる。


唐突に私の話をすると、つまり私がずっと抱いている学歴コンプレックスは決して本質的なものではないということである。コンプレックスは個性だ、みたいなことを聞くたびに「んなわけないだろ」と思っていたのであるが、私には学歴を使って隠したいものがあったというだけの話なのである(その本質的な何かについてはまだ掘り下げられていないのでまた今度)。


実は人間というものは自分も他人も同じ基準で裁く。他人を見て「ここがおかしい!」と憤っている箇所はそのまま自己攻撃の箇所である。しかしそこは遥か昔に自分を責め抜いた挙句に矯正されていることが多い。だからこそ自己攻撃とは意識されずに他者への批判として意識される。矯正には多大な努力が伴っている。この隠れた自己攻撃と努力に気づき、解放していけば人は表面上の劣等感に振り回されなくて済むようになるのだろう。原理的には。