もうすぐ平成も終わりですね。祝・令和!などという気分では一切ありません仕事です。

さて、最近では自己啓発(私はスピも心理も全部このジャンルだと思っているが、割と細かい区分があるらしい)においての主流が「頑張らない」で、良い傾向とも思うのですが、少し思うところを書いていきます。


まず「努力」「自立」辺りの語のイメージが良すぎるのが結構問題だと思っていて、なんだかこれらの単語、「絶対善」の雰囲気あるじゃないですか。努力自立が絶対善だとするならば堕落依存が絶対悪になるわけですが、「絶対悪」というものの存在ほど人間を苦しめるものはないよなあ、と思います。

だって考えてみてください。「絶対悪」な自分を愛せますか?許せますか?私は許せないですね。でも人間生きてたら堕落する日もあるし、依存する日もあるし、腹痛くて家族に暴言吐く日もあるわけです(超具体的)

「怒り」はかなり「絶対悪」系のイメージ持たれてますけど、状況のコントロールに使われるという意味では「怒り」も「努力」も「自立」も同種のエネルギーだと思うわけです。


○○教、ってあるじゃないですか。これはかなり乱暴に言えば「○○によって救われる」の意です。例えばキリスト教なら「キリストによって救われる」仏教なら「仏によって救われる」どういった形での救いかは宗教によって様々ですが、とにかく○○教とは「救いの源が○○である」という意味です。ちなみに私は心屋子宮スピ好きなんですが、純然たる宗教だと思います。宗教って別に悪い意味ではないし。

そういう意味で日本人は無宗教、なんてちゃんちゃらおかしくて、「努力教」「拝金教」だと私は考えています。だってなんとなく思いますもの。努力していれば救われる、金さえあれば救われる、と。自分の心身壊してまでこれらを追い求めている図は、もはや日本全体がオウムの比じゃないくらい人を殺しまくっている悪質カルト宗教では?と疑うレベルです。


私は努力でメンタル壊した(=つまりガチガチの努力教信者)ので反動で努力アレルギーに振れているのでこういう書き方をしますが、決して努力は悪いものではないです。「何かを自分で決めて行うことができる」ことは人間の精神の安定において必要不可欠なものであると思います。だからといって、全てをコントロールできるわけではないので、努力が過剰だとフラストレーションが溜まって心身壊すのかなあ、と。日本全体が努力教の雰囲気だから、対応してフラットにするべく「頑張らない」という本が大量発生する側面もあるでしょう。


過度に自分に厳しくムチを打ち、努力を至上のものとして走り続ける人は、既に「成果」すら見えておらず、「他者評価」のみに縛られて生きている印象があります(なぜって「成果」を考えるなら適度に休んだりしたほうがいいわけですから)それは苦しい生き方ですが、自分で自分にムチを打っておけば、他人からムチを打たれる確率は下がりますし、他人にアピールできる何か(学歴とかね)があればもう他人が何かを言ってくることもないでしょう。無敵ですね。


というわけで、今日の結論は「自分に優しく」なんですがこれは決して甘っちょろい夢想家のたわごとではなく、「他者の目を捨てよ」「自身の偏見に気づけ」「過度なコントロール願望を捨てよ」という、精神修行的な意味合いもあるよということです。自分に優しくしよう。