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今回は膠原病についてお話させて頂きます!

まずお伝えしたいのは。。
持っているものは治らないし、難しいが、寛解(治らないけどいい状態・かんかい)の状態だと、健常とほぼ変わらなくみえる。そういう私が、どうやって働いて、どうやって人づきあいをして、どうやって生きていけばいいのか
これが、ずーっとついて回った一番大きな課題?ということです

難しいですよね。。ガーン
看板を背負って歩くわけにもいかないし。。

ですから、『普通』に見えることから例えば、
ヘルパーさんを頼めば、『うちも頼みたい』と皮肉的に言われる
体力がないため、また、倦怠感のため、ゴロゴロ(動けないだけ)していれば、働けと言われる
運転が心配なため、協力を頼めば、自分で行くようぐちぐち言われる
なんで働かないのか、と怒られる

などがあり、傷ついたこと数しれずですえーん

自身が一番葛藤していたのです。。
『普通』に見えるのに『普通』じゃない。
当たり前が、当たり前じゃない。薬で保っているだけ。
『普通』にはできない
治ってはいない、治らない。
じゃあ私はどうしたらいいの?
(そして精神疾患も絡み)どうしたら認めてもらえるの?

しかし、このような状態になるまでも
もっと苦しく、どうにもならない時期がありました。
それは、病気になり始め、悪化を繰り返した時期です。

最初は全身性エリテマトーデス。
これは、ひどかった精神的な症状の治療が優先となり、診断はされましたが、治療はありませんでした。ですが、精神的治療をしていても、なかなか心身共によくなりませんでした。

そして次は、ほぼ同時だった(気がする)、シェーグレン症候群と混合性結合組織病。
今は、混合性結合組織病が、主たる診断名です。
こちらになり、治療が始まりました。
これが、9年ちょっと前の東日本大震災の年です。

ですので、総合的なお付き合いは10年ちょっとになりましたねポーン
そのうち最初の4〜5年は悪化と治療の繰り返しでした。その後約5年は、幸いにも寛解です。

最初の4〜5年。
終わりの見えない葛藤を繰り返しました。
なぜ私が?
なぜ今?
みんなが働き、家族を作っていた年頃。なぜ自分だけがこんな病気になり、辛い想いをしなければならないのか、自分に問い、周りに問い、周りから責められました。
何度も救急車で運ばれ、入退院を繰り返しました。
終わりはないのか?
絶望感でいっぱいでした。
ある時、ベッドが隣のガン患者さんと、
とらないと死んでしまうのと
それでは死なないけど治らないのと
どちらが辛いかな、なんてお話しもしました。

そんな時も、私は幸いにも一人の先輩(その2と同じ方です)、次第にわかろうとしてくださる周りの方に恵まれて、支えて頂きました。
甘えて全部をぶつけました。毎日毎日問いました。
全部受け止めてくださいました。
家族との間に入ってくださいました。

そうしてもがいてあがいて気づいたら(進んでいることすらわからなかった)、病状は落ち着いてきていました。

もちろん、病院の先生や薬との相性、タイミングもあっての落ち着きだというのもあります。
(病院の方とは、退院や制限について、精神的にも落ち着かず、たくさんケンカもしました笑い泣き

同時に精神的なものも、次第に落ち着いていきました。

本当におかげさま、のわたくしの人生なのですが、
やはり『その時』は、きたのです。終わりの見えなかった病状に、落ち着く日はきたのです。

七転び八起きどころか、七転八倒だった私。
孤独にも病んだ私。

そんな私でも、今は自分の家族ができ、2児の母親にもなれたのです。

何をしたわけではなく、本当に時期をやりすごせた、といった方が合っていますかね

でも、敢えて繰り返したいのは、『その時』はくるということですニコニコ

かなりかいつまんでお話させて頂きましたが、今でもお付き合い中の膠原病のお話でした。

長い文章、お付き合いありがとうございましたm(__)m