きのうのカタリバ大学から24時間以上たちました。
未だ、昨日の余韻に浸っています。
とてもいい時間を過ごしたみたいです。

さらに、寺脇研さんから素敵なメッセージを頂いて
ひとまずこれから4月のスタートまで俄然やる気がんがんです。
高卒認定を受けた立場としてもね・・・・!
とにかく頑張らなくては!



一言でいうとこんな感じ。
間に立脚することって、なかなか難しい。
受験中にすごく困り果てて、死にかけていたからなあ。
身をもって強く思う。
自分を痛めず、間に立脚できる人間になりたいと思う。

「混沌として色々考えることになる。」なんて言ってるので、つらつらと書きます。
残念ながら、いつもながら、ぐるぐるしている。
(美しさがないから、混沌という言葉は間違っているかもしれない。)

私は「意識高い系」と言われるコミュニティで高校3年間を過ごしてきたので、
私の問題意識はここにある。
高校生学会みたいに、高校生頑張ってるんだッ!って始まった高校生だけの任意団体もどんどん増加して、今じゃ新聞のったり、ソーシャル・インパクトが強いものが高校生というレッテルの効果に、背伸びした(とても悪くいうとずる賢さみたいな)テクニックが付随して、勝ってる状態。
大人をなめてると思う。(そんな傾向が強い人も少ないくない。)あるいは社会を。
だから、机上の空論をするくらいなら、変にテクニックが上達していくくらいなら、家に籠ってる方がいいなんて最近ずっと思っていた。嫌気ばかりが湧いてくる。



で、最近であったのが『下流思考』(内田樹)です。
まるで自分が暴かれているかのようで、反省もしながら読んでいる。第一章で学びからの逃走原因として書かれている「等価交換」が、反省と嫌気の原因を解くヒントになるんじゃないかと思った。

「..すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにとって不本意なことであろう。」(『オレ様化する子どもたち』諏訪)
消費においては、その人の年齢や識見や社会的能力などの属人的要素は基本的に誰もカウントしない。消費主体として出発した子どもたちは、つねに目の前のものを『商品』として見る。それを値切ろうとする。
そして教室で使える貨幣は、(あるいは子ども達にとって使える貨幣は)「不快」だ。
「僕たちはこれだけ沈黙っていう「不快」を支払ってるけど、教師は何をくれるの?」

そんな感じ。
それで残念ながら、「不快」「クレーマー」として有能なことと、問題意識を持つことが上手いことは、繋がっていると思った。そしてあくまで「消費主体」だから机上の空論だし、これだけ貢献に対する等価交換は当たり前だって思う感じ。

ちょっとズレてきたから、ここでひとまず話しを一休みさせて、私が昨日話した事を振り返る。
「僕らの一歩が日本を変える。」の全国行脚で行なった「もしあなたが総理大臣になったらどうしますか?」って質問に対して、答えは意識高いか、学校なくしたいとか赤点廃止とか、答えが二極化した。
「学校なくしたい」なんて・・・って侮辱するのは簡単だけど、それこそ日々の日常の不満で、問題の本質が眠ってる気がする。問題なのは、そこに本質眠っていると気づかないこと、自分のエゴだけの問題ではないことかなあと。

でも反対に「意識高い系」的答えだって、当事者でもなくて、メディアからのコピペだったり、不快でしかなかったり、机上の空論じゃないか、って思う。心に響かない。ふーん、いつものやつだね、みたいなね。
つまり両者とも、社会と自分のエゴや不満が上手く結びついていないことが問題なんじゃないかと考えてみた。


そして「きっかけ」というのは、まさに自分自身と物事(あるいは社会)を「むすぶ」こと。
それが楽しさとか幸せ(=自己肯定)にも繋がっていくし、それこそが「学び」なんじゃないかと思った。

自戒も含め、僕たちは「~こんな活動をしているんだ!』って絶対的にいいことをしていると思っている意識高い系の高校生は、もっといろんなきっかけの中で、価値と出会って、もっともっと社会を面白くしていって欲しいと思います。

私も残りの高校生活、頑張るからね!
自分が言い切ってることを、もっと疑っていこうと。