中央特快に乗ってふちっこからふちっこまで移動した、それだけでも充分疲れきったから、きっと旅と呼んでもさしつかえないだろう。
だけど、それだけじゃダメなんだ。
限られた時の間を注意深く探るように、冒険へいかなくちゃならない。
だから、壊れたPCと壊れたスーツケースを抱えながら新幹線に乗り込む。そしてそこからホームへと降りるととんでもない湿気が襲ってきた。罪悪感を抱えたときの気持ちのように、洗っても洗っても、他のことを考えようとしても、なかなか私からは落っこちてくれない。それはさておき、もう一度中央線へ乗り込んで勝川へ向かう。
そうだ、その前に、旅の前にはあの場所へいくことは欠かせない私の駆け込み寺のことを書き忘れていた。もちろんそれはOAZOの丸善の4階にある。また蔵書が変わってた。






こうやって旅が始まった夜は、とりとめのないことばかり考えるようにしている。というか浮かんできちゃうのだ。せっかくだから書き留めておきましょう。てへ。
でも、そうやって考えているときこそ、案外深く考えているのだ、別のことを。

まずは“忙しい”ことについて。
今、これを読んでくれた方は間違いなく“いそがしい”と読んだだろう。“いそがしい”という言葉は(特にワカモノはさ。)ほんとに忙しい時ではなくて、比較的忙しいときのことを指すのだと思う。この言葉は、スケジュール帳をびっしり埋めることを楽しむ人がいるように好きな人は多そうだ。まぁ話す分にはよろしい。だけど聞いた方にとっては、あまりいい匂いはしない。
ということで、前々から“いそがしい”と言うことは避けてきたつもりなわけだけど、どうしても言う必要があるとき —例えば夏休みに私がこの冒険のせいで、壁を塗れないこと、 そんな時だけ使うことに決めた。だけど“いそがしい”ではなくて、“せわしい”と読むよ!

次に本について。
大きく小説とそうでないものに分けられると思う。物語(あるいは非現実,空想)と、現実(あるいは理想)。ここ3日間で村上春樹を4冊をその他を合わせて5冊読んだ。この集中は小説のせいで起こってしまったのだ。小説め。
小説というは現実ではなく空想である、と思っている。一つの解釈として。だから、どなたかのつくった世界を少しだけ覗かせていただく行為であって、自分とはまったく別のところで物語が進んでいく。4冊も読んだのは、そういう連続したものだったからだ。毒の如く体にまわり、抜けることが出来なくなる。現実と非現実の境界が曖昧になってさまよう。そして本の中のように時間を進めたいと、現実に少しだけ背を向けることになるのだ。
反対にそうでないもの、特に対談を読むと、まるで自分もそこにいるかのように、自分を含めて時がまわっていく。決して受動的に受け取るだけでなく、一番いいポジションで関わりながら、湧き出るイスピレーションのなかにどっぷりと浸かれる。
さらに布団の中に滑り込んでからも大事だ。小説は毒のまわりはいっこうに無くならず混沌とした中で眠りにつく。そうでないものたちは、寝てから始まるのだ。本の中の人物が鮮明に現れたり、対談の続きが始める。村上春樹においては、対談を読んだ日には夢に現れたが、小説をよんでもでてきてくれない。もしかすると私は想像力が劣っているのかもしれない。小学3年生の時にたっぷり読みすぎたのかもしれない。

やれやれ。
冒険をするのに、随分寄り道をしてしまったみたいだ。