METAMORPHOSE.



ついに卒業演劇『陽だまりの樹』三日間公演終了!
700名以上でしょうか、最終日は立ち見の方までいるほどたくさんの方に見に来ていただきました。元クラスメイトのみんな、遠方から来て下さった方、飛行機のフライトまで遅らせて二度も見てくれたあなた、2回も3回も見て下さった方々など、みなさま本当にありがとうございました。
私たちのお世話係の子(もう7年生!) が、“みたい、みたい”と言いながら寝て、朝一番にまた“みたい!”と言って3回も来てくれたなんて話を聞いたときは本当に嬉しかった。ほっぺが疲れるほど嬉しかった。

そして11年生や先生、毎日差し入れのお菓子を焼いてくれた母、殺陣を教えてくれた神津さんたち...とても強い力で支えてくださってありがとうございます。
古賀さんの言う通りで、必要なことは何故か上手い具合に助けられてきた。そしてそれは私たちの力で巻き込んだんだと言われたのはとても嬉しかったね。

私が今感じていることは、まず朝起きてプレッシャーがないこと、体の力を抜かしてもよいこと、その開放感からようやく劇が終わったらしいぜ、ということです。本当にこの劇が成功だったのか、よい劇だったのかはまだ分かっていないけども、たくさんの人に言葉をいただいて、そしてたくさんの人の表情を見て、無事成功したらしいじゃない!と思えている所です。

ただ練習というのは本当に酷いもので、これで完成するのか、こんなんで観客を巻き込めるのかと不安しかなかった。ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイと思っていて、この前に書いたブログの記事なんて半分くらい自分を奮い立たせるために書いた。
それが観客が入ると違うんですね。見てくれている一人一人からつくられる会場の空気が、もちろん緊張も生んだけど、私たちを育ててくれた。やっと心が入ったと言われた。
公演が終わってから、こんな言葉をいただいても平気なのかというくらいみなさんから大きなものを頂いた。だけど、私たちの頑張りなんてしれていて、こうやって来て下さった方がつくってくれたんだととても感謝しています。

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あまりにも濃い長い時間を過ごしてきたから、ここに書ききれない事、言葉にはならないことがたくさんある。そして時がたってから気づく事もたくさんある気がして...何を書こうか。


■役を演じるといこと

役者として演技が上手だとかそんなのは案外関係ない。私はどちらかと言えばある一定ラインまではすぐにつくれる方だと思うけど、だからといって良いわけでもなく、あまりに不器用でも実は素晴らしい原石を持っていたりする。とても大器晩成な人が多くてヤバイけれども、そんなところに惚れたり、憧れたり。
卒業演劇の作品を決めるときに、7人が全員が主役にしたいと言っていた。終わってみると、最後まで “おせきさん嫌いだし!”とか反抗期の如く怒っていらっしゃる方もいたけれど、どの役もその人らしい、その人にしかできないなと思った。自分のことはよく分かんないけど。

■何故『陽だまりの樹』なのか。

古賀さんは、もう1年くらい前からペールギュントにしたいと決めていて、役も音楽もわくわく想像していたらしいのだけど、7人全員が納得せず、そこから中々作品が決まらなかった。もうものすごく悶々とした時を長くすごした。そんな中で『陽だまりの樹』と出会った。
このクラスは、大器晩成も甚だしいが実はけっこうエネルギーを温存していて、幕末だったり、大正デモクラシーだったり、その時代に生きる人々の大きな転換、新しいものが生まれる間の葛藤、そんなのが一番あってるんじゃないかと豪雪の中で話あったことがある。でもオオゴトをオオゴトに捉えていくことは、違うんじゃないかと話していた。
そしたら孝子が言うじゃないか。
“けれど、書き残された歴史はいつも後の世の人々が創りあげた物語です。”
そしてなにより脚本家の横内謙介さんのあとがきは、決定的だった。

“私たちは、つい結果ばかりを見て、激動の時代とか、新時代とか、特殊な言葉で時代を語りたがるが、その時代に生きている人たちにとっては、どんな時代も唯一無二の今この時なのである。そして、それが今である限り、メシも食えば遊びもする。まして、今がどんな時代かなんて考えもしないのが普通だろう。よほどの暇人か変人でもない限り、仕事や遊びに忙しくて、そんな暇はないのである。
そういう感覚で幕末を描けないかと思ったのだ。もう少し言うなら、龍馬のような、自由の有り余った浪人の目線ではなく、暮らしや仕事に追われる職人の視線で捉えた幕末だ。”(抜粋)


いつの時代も、どんな時でも人は何かを決断して生きていかなくてはならない。どの立場の人だって、それぞれの決断の中で必死に生きていくしかない。それはあまりに残酷で、私だってあなただって常に求められている。
万ニ郎は、無二の親友であった慎吾を自分の刀によって亡くし、そこで守ったヒュースケンも無くす。ついにはおせきとも結ばれず、上野戦争で死に絶える。結果を見れば何もなかったただの虚しい人生だったと終わってしまうが、真実は決してそうではない。
...劇の内容については、もう語りはじめたら言葉が必要以上に溢れて何度か夜が空けそうだから暖めておくよ。

METAMORPHOSE.



■卒業演劇の意味

卒業演劇をつくっている時の、一人一人の意識の先は全く違う。私はこの劇がどんな意味だったのか考えたがるが、ただ一生懸命に役をつくってきたという人もいる。学校の一歩外へ出ると、人と関わる事をそこまで苦労としない私はさっさと評価され、大量の大学生の中に放り出されたらコミュニティー障害とやらになりそうな人もいる。だけど、劇を演ずれば一人一人に優劣なんて存在しないことに気づく。
むしろ、だからなんなのだと思う。
私が4月に新しく大学生になった人たちをみて、大学の意味を考えながら溜め息をついているとき、クラスメイトはそんなことはどうでもよさそうに、もっと別の世界を見ているのだ。そして私にはできない世界をいとも簡単につくっていく。ならば私はなんなんだろうかと、劇の間そんなことをずっと考えていた。

あれま。こんなこと書くつもりはなかったのに。
さて、劇を終えて早々に宿題を頂いた。

・劇の前後で自分自身について気づいたこと、再認識したこと、もしくは変化したこと
・作品を通じて気づいたこと
・これらを、これからのあなたの人生にどのように活かしたいか?

...ブログにしては長過ぎるじゃないの。もう飽きたわと思いながら読んでくれているあなたの為にもう終わるわ。いやぁね、ここまで読んでくれる人なんていないわよ。そうよねえ。
とにかく、劇が終わったことも、成功したこともよく分かっていないし、ずっと憧れてきた劇ができたことも信じられていない。なんとか、あんまりにも、あまりにもで。
私にだって人に笑顔も言葉も与えられるんだってことがとても嬉しかった。受験にまっしぐらで、同窓会をしても受験の話ばかりのクラスメイトから、劇から勇気を貰ったなんて、この時期にこれを、しかも元クラスメイトから貰えたことが嬉しいなんて、友達であることが誇りだなんて言わた。





これからゆっくりと、しっかりと噛みしめていきます。
これからがやっとこさ本題。やっとこさ始まる。