人里離れた森の、そのまた奥深くで、ひとつの黒い影が走ります。
降りしきる雨が森を激しい音で包み込み、影が草をかき分け木の葉を踏む音はすっかりかき消されました。
その日はお腹が空いていたので、朝から小動物を追いかけて森を駆け回っていました。
彼に共に狩りをする仲間はいませんでした。そんなものは必要なかったからです。彼の牙と爪は、狙った獲物を決して逃しませんでした。
この広く深い森の中で、たった独りで生きる一匹狼――それがシキだったのです。
雨が酷くなったことで、獲物になる動物は皆ねぐらに帰ってしまったようでした。
シキはまだ多少の空腹を覚えていましたが、また明日食べればいいことだと思い、素直に帰ることにしました。
寄りかかるようにして積み重なった大岩の隙間にできた小さな洞窟が、シキのねぐらでした。
月明かりもささない純粋な闇は、シキにとって居心地がよかったのです。
しかしその洞窟の入り口に立ったところで、シキは違和感を覚えました。自分以外の動物の気配がするのです。
その気配は濃く、かなり近いところにいるようでした。ついでに、ひどく気に障る嫌な臭いもします。
つまり、誰かがよりにもよってシキの寝床を荒らしに来ているということです。
そのような無礼極まりない真似を、シキが許すはずがありません。
シキは気配を殺しながら、洞窟の奥へゆっくりと進みました。
他の動物の臭いが染みついているところを荒らすくらいですから、ずいぶん厚かましい相手のはずですが、その割には気配がおとなしいような気がします。よほど呑気なのか、図々しいのか……気を一層とがらせて、小岩の影を覗きました。
その瞬間、シキは全身を硬直させました。
(――人間)
そして、このにおいは……
小柄な人間の脇に無造作に置かれた赤い物体を、シキはまるで親の仇と言わんばかりの形相でギロリと睨みました。
嫌な臭いという表現では足りないほど、酷い臭気があたりに立ちこめています。入り口で感じた違和感の正体はこれでした。
脳みそと内臓を内側から抉られるような強烈な臭いは、”オオカミ避け”に違いありませんでした。
シキが顔をしかめてその布の塊を洞窟の奥へ蹴飛ばしたとき、パチリと人間の目が開きました。
「……? ……っ!」
人間は一度ぱちりと瞬くと、ぱっと目を見開きました。
不覚にも、シキはその大きな瞳に目を奪われてしまいました。
薄闇の中でもはっきりとわかる、強い光を湛えた目でした。
「おまえは……」
思わず声を発すると、人間は驚きで飛び上がりました。それもそのはず、シキはオオカミの姿をしていながら、人間の言葉を話すことができるのですから。
シキは驚きのあまり動けないでいる彼の額に前足を触れさせました。
やわく薄いこの皮膚を、いますぐ切り裂いてしまいたいという欲望が胸の内に生まれます。
人間は怯えていました。ですが、決して目を逸らそうとはしません。
「食うなら、食えよ……!」
彼は震えた声でそう言い放ちました。洞窟の中に響いた残響が心細く揺れました。
おもしろい、と思いました。
怯えるくせに、逃げることも、命乞いをすることもありません。
挑みかかってくるようなこの眼差し。シキはこの人間をすぐに気に入りました。
「今から俺の所有者はこの俺だ。食われるよりも恐ろしい夢を見せてやる」
「なんだって……?」
人間は、怯えを通り越してあっけにとられたように息をのみました。
「二度とは言わん。おまえは今日から、俺のモノになる。それだけだ」
「ふ、ふざけるな、この……化け物が!」
期待通りの反応にシキが愉悦の笑みを浮かべると、人間は必死にシキの手を払おうとしました。
しかし、ただの小柄な人間がオオカミに敵うはずもありません。
シキはあっという間に人間をかたく冷たい地面の上に組み伏せました。それでも彼の瞳に宿る強い光は消えることなく、シキを射抜かんばかりでした。
「……ふ」
永遠に続くかと思われた退屈な時間に、つかの間の楽しみが与えられたのです。シキの中にはっきりとした”欲望”が宿ることは、久しくありませんでした。こんなに素晴らしい獲物を簡単に手放すはずがありません。
このときのオオカミは自分の胸に宿った小さな炎の本当の意味を知ることはありませんでしたし、人間はただ目の前に迫った死の恐怖に向き合うので精一杯でした。
ふたりは自分たちが落ちてゆく先も知らぬままに、最初の夜を迎えようとしていました。
――*――
オオカミシキさんも登場させることができましたので、次回は初夜(?)を書きたいと思います。
ここまでが狗ドロで出したエア新刊の本文の内容なので、このあとからは新規で書かないといけません……ので、少しお時間いただくかと思います。
気長に待っていただけると嬉しいです。
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