フィッシュボールとお団子
このイラストの左下のモノ(白い丸が3つ連なっているヤツ)を見てください。
日本人なら、ほぼ100パーセントの確率で「お団子」(甘いやつ)と答えると思います。
(ちなみに、その隣がホットケーキ、さらにその隣がプリンで、リラックマが持っているのは
オムライスかオムレツです)
さて、ここシンガポールでも比較的人気のリラ ックマですが、今日、10歳くらいのシンガポーリアン
(中華系)の女の子にこのイラストを見せたら「Fish ball??」と言われました。
(たぶんシンガポールに住んでいる方にとってはかなり笑えると思います)
フィッシュボールは、白いかまぼこをボールの形にした感じのもので、日本では食べたことが
なかったのですが、シンガポールではスープに入っていることが多くなかなかおいしいです。
イラストの団子のように串に刺さっていることもあります。
確かにシンガポールではお団子よりもフィッシュボールの方が格段に一般的なものなので、
そういうふうに捉えるんですねぇー。
しかしフィッシュボールて…(*≧m≦)=3
ちょっと面白かったです♪
日本語教育能力検定試験の学習方法に関する一私見
1.はじめに
学習方法についてはいろいろと言いたいことがあるのですが、なかなか授業中などではゆっくり時間がとれませんので、このように文章にしてみました。
まず、これから述べることがどのくらい多くの人たちに役に立つかわかりません。もしかすると、こんなことはわかっているよという人もいると思われます。そのような方は、以下のことは一切無視して自分がいいと思う学習方法を選択することをお勧めします。それから、逆にここに書いてあることは全くそのとおりだ、すべて実行しようと鵜呑みにすることも間違っています。なぜなら、これはあくまで福地個人の「一私見」であり、普遍的な正しい学習方法ではないからです。また、そもそも学習という行為は自分の頭で考えて進めるものなので、他人の意見をそのまま鵜呑みにすることは学習という行為そのものに根本的に反する行為です。
では、特に具体的にどんな人に向けて書いたか述べておきます。
・また新しいことを始めちゃったけど、どこまでやれるかわからないし、結局飽きるんじゃないかと不安という方
・今日から勉強を始めようと堅く決意したけど、だらだらテレビを見て、ぜんぜん勉強できない方
・計画を立てたけど、全くその通りにいかずにいつも自己嫌悪に陥っている方
・自分だけが頭が悪いんじゃないかと劣等意識をもっている方
・本当の勉強とは丸暗記とは違うと思いつつ、つい丸暗記の方法を実行してしまい、何か違うんじゃないかと感じている方
・手っ取り早い学習方法があるはずだという固定観念から抜け出そうと思いつつ未だに抜け出せない方
実は上記はすべて私自身に当てはまることです。そう、以下の文章は自分自身に向けても書いているのです。学習が恐ろしく下手な自分自身に対して自戒を込めて書いています。その意味では、すでに検定に合格して日本語教師養成講座を担当している教師という「偉そうな」立場ではなく、学習方法や学習・教育のあり方に右往左往して、五里霧中の中をさまよい歩く、何が何だかわからなくなってしまった情けない人の立場です。ですから、外から見て偉そうに語るのではなく、内にいる当事者の声と思ってください。
したがって、以下の文章を読まないほうがいいのは、手っ取り早く効率的な「やり方」「受かり方」を教えてよ、出題される所だけをできるだけ絞ってまとめてよという方です。全く期待に応えられないと思うので、読むのは時間の無駄です。
以上を踏まえた上で、具体的にみていきましょう。
*以下、日本語教育能力検定試験を「検定試験」と略します。
2.「勉強して損した」
表題の「勉強して損した」とは、検定試験に落ちた受講生の言葉です。検定試験に落ちたので「勉強して損した」というわけです。私は、「損」になるような勉強はするな、どんな勉強でも意味があるなどと当の受講生を批判するつもりはさらさらなく、むしろ、なぜ私<たち>は「勉強して損した」と考えてしまうのかという問題のほうが重要だと思います。もう少し一般化して言うと、結果がダメならその過程も無意味だということでしょう。もしかしたら近代社会が生んだ効率性に縛られているのかもしれませんね。確かに一生懸命に学習して検定試験に落ちれば、費やした時間や労力(お金も!)が無駄と感じる気持ちはよく分かります。また、結果が悪くても努力の過程のほうが大事なんだと諭したところで、気休めにしかならないでしょう(まさにオリンピックの「参加することに意義がある」)。しかし、そうは言っても、過程である学ぶ行為そのものにも大きな意味があることは否定できません。人間は生まれた瞬間から死ぬまで、毎日毎日、無意識にせよ意識的にせよ学び続けます。つまり、人間が生きることそのものが学びと言ってもいいでしょう。また実際、日常生活の中で私たちは様々なことに出会い、そして理解し学びます。「へ~」「なるほど」「そうだったのか」「今わかった!」と声をあげて学んでいます。このようなときには常に感動や驚きを伴っています。そう、感動や驚きがあるからこそ学ぶことができるのです。
学ぶ過程にも意味がある、この言葉は確かに気休め程度にしかならないのかもしれません。しかし、検定試験の結果重視に偏れば偏るほど感動や驚きが減ることは目に見えています。一般的な試験勉強は結果のみを重視して感動や驚きがないので、つまらないのでしょう。確かに結果は誰も保証してくれません。でもせめて、落ちても損をしたと思わない、無駄だったと感じない学習をしてみませんか(決して「~てください」ではなく「一緒に~ませんか」です)。試験に出るから覚えるのではなく、「なぜなんだろう」「どうしても知りたい・分かりたい」という子どものような気持ちを少しでも蘇らせて、感動と驚きをもって学習してみてはどうでしょうか。
3.人生にとっての検定試験
みなさんにとって検定試験とは何でしょうか。自分の力を試したい、就職に有利だから、他の人を見返してやりたい、単なる記念のため、などいろいろな理由があるでしょう。理由の是非はここで問うことはしません。ただ、少なくとも自分の人生にとっての検定試験の意味をできるだけ明確にしていただきたいと思います。なぜなら、あとで少し述べますが、動機を高めることにつながりますし、結局は最終的に自分の人生に直接的に関わってくることだからです。その意味においては、徹底的に自分の将来を考えて、結果的に自分にとって検定試験は不要なのだという考えに至ってもそれはそれで素晴らしいことだと思います。
何が何でも今年合格したいと思う人は多いと思います。確かにその意気込みは重要ですし、理解・記憶という点でも養成講座修了直後に受験して合格してしまったほうがいいです。しかし、人生の意味から考えて、仮に今年合格しないことがどれほどの意味を持つのか、ほんの少しは考えておいたほうがいいでしょう。なぜなら、何が何でも今年という意気込みの度が過ぎると焦りや不安、それに伴う体調不良などの逆効果にもなることがあるからです。これだけは注意しましょう。
私の経験ですが、行政書士試験には3回目に合格しています。1回目から本気で合格するつもりでかなり勉強しました。特に2回目は絶対に合格するという覚悟で時間も労力も費やしました。しかし結局、最終的に合格したのは3回目でした。実は私自身は3回目に合格したことをむしろ感謝しています。なぜなら、もし1回目で受かってしまったら、おそらく法律の基本がわかっていなかっただろうし、さらには自分自身の勉強の足りなさを本当に自覚することがなかっただろうと思うからです。結果的に、私の人生にとって3回目に行政書士試験に合格したことは幸運でした。
さて、ここで検定試験を受験した当時(1990年)の私の考えを述べておきたいと思います。私の人生にとっての検定試験の意味と言い換えてもいいでしょう。ちなみに検定試験には運よく1回で合格することができました。当時は将来は日本語教師になろうと決めていたので、そのために合格するのが当然・当たり前と自分に言い聞かせて動機を高めていました。つまり、検定試験に合格することは日本語教師のスタート地点にすぎず、合格して初めてそこから本当の学習が始まるということです。実際、私は検定試験に合格してから民間の養成講座に通い始めました(ただ、計画的・意図的にそうしたのではなく結果的になったというだけです)。
言うまでもなく検定試験はただの目安に過ぎず、合格者のすべてが優れた教師ではありません。人生の意味から考えれば、はるかに重要なものがあるはずです。
