天邪鬼隠居爺さんのプレミアライフ (perverse pitch)

天邪鬼隠居爺さんのプレミアライフ (perverse pitch)

   中学生の時ダイヤモンドサッカーで見た“アーセナルゴール”に魅せられ早や50年、隠居を始めて3年、アーセナル愛+αについて、ゆっくりだらだらと書きます。天邪鬼と三日坊主が災いし更新なしで終了の恐れ大ですが、とりあえずキックオフ!

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アーセナル対チェルシー

2021年8月22日

ぼくはフットボールから学んだ。イギリスやヨーロッパの地理的知識は学校ではなく、アウェイのゲームやスポーツ記事で覚えたものだ。プレミアリーグに所属するチームの都市はもちろんのこと、FAカップで2部~6部のチームと対戦するときも、イングランドのどのあたりの街に行ってゲームをするのか、必ず地図で調べたものだ。さらに学校で覚えた知識が全く役に立たないソ連崩壊後の東欧各国と都市の名前と場所は、全てCL・ELの対戦相手から学んだと言っていい。

フーリガニズムは社会学とフィールドワークの手ほどきをしてくれた。人種問題や移民の歴史、最近ではBLMや難民の問題もフットボールが教えてくれた。コントロールできないものへ時間と感情を注ぎこむことの価値についても教えてもらったし、寸分違わぬ目的を持つ人々が形作る共同体に身を置くことの意味も教えてもらった。

 

そしてこの1年で最もフットボールを通じて教えてもらったことが、世界のコロナ感染の実態と各国の感染対策だ。特に、ヨーロッパ各国のリスクへの向き合い方、権利と自由への考え方、国民性など、多くを学んだ。国のリーダーのリーダーシップ・発信力の重要性も良く分かった。

対してこの国のリーダーは、この点で悲しいくらい能力が劣っている。危機管理の重要性も全く理解していない。明確な方向性も示さずに国民からは逃げてばかりで、正面から答えようともしない。前首相に至っては、「コロナに打ち勝った証しとして五輪を開催」などと言いながらも、打ち勝つための武器は竹槍ならぬ役に立たないアベノマスクだけという神風頼み、やるべきこともやらず投げ出して、猛威を振るうコロナの前に国民を置きざりにして敵前逃亡する有様だ。

 

有効な対策なしで、頼みは真面目な国民の自粛だけという中、ワクチン接種が徐々に進んでも、変異株の影響もあり、新規陽性者数は爆発的に増加した。重傷者も増加傾向に転じ、日本は少ないから問題なしと政府を擁護した御用学者・有識者・コメンテーターの発言が全く根拠のないことを証明するかのように、死者数も増加し始めた。

死は身近なものとしてぼくの前に現れ、生そのものについても学ばせてくれた。

 

シーズンなかばでコロナで死んでしまったらどうしよう。そう思うことがある。けれど確率から言ったら、八月から五月のシーズン中に死ぬ可能性のほうがずっと大きい。死を迎えるのは身辺の整理がついてからだと、ぼくらは楽天的にもそう思っている。だが少なくとも、限りある生について思いを馳せたことのあるフットボールファンなら、ナンセンスであることを知っている。カタをつけられずに終わることは、何百とあるに違いない。もしかしたらひいきのチームがウェンブリーに登場する前の晩に死ぬかもしれないし、CL・ELのファースト・レグの直後に死ぬかもしれない。死後の世界に関する多くの理論から言えば、何か最後まで見とどけられずに終わるのが普通だ。死は、でっかいトロフィーを与えられる直前にぼくらを襲うと言ってもいいだろう。暗喩的に言うなら、それこそが死の要点だ。

 

シーズンなかばで死ぬのは嫌だ。しかし、試合直後に死んだりもしたくない。例えば一昨シーズンの最後、FAカップ決勝でチェルシーに勝って優勝した直後、そんなタイミングで死ぬなんて、ほとんどキマリすぎじゃないか。フットボール・ファンが死ぬには、あまりに絵に描いたようなタイミングだ。みんながかすかに首を振って、あいつが死ぬんだったらきっとこういうタイミングを望んでたはずさ、なんていう死にかたなんて、絶対嫌だ。安っぽい予定調和なんかより、厳粛な悲しみをあたえるほうがずっといい。

 

迫ってくるコロナ感染で死というものを考えざるを得なくなった21/22シーズンだが、第一節にブレントフォードに負けたことで、こんな気分のまま死を迎えるのは何としても避けたいと思い、これまで以上にマスク・手洗い・消毒を徹底して、第二節ホーム初戦のチェルシー戦を迎えた。チェルシーに勝ち、次のマンチェスターシティにも勝てば、今シーズンが明るく開けてくる。死は嫌だが、絶対に避けられないのであれば、こういう期待の持てるタイミングしかないかも知れない。

だがチェルシーは、アーセナル守備陣が最も苦手とするタイプのルカクを早くも先発起用。いやな予感が当たり、ルカクに先制点を献上。そしてティアニーの空いたスペースをまたも狙われ、前半で0-2。後半は少しは持ち直したが、ボールを奪取した後のスピードに乏しく、またも得点を奪えず完敗だった。

こんなチーム状態のままでは、ますます今シーズンなかばで死んでしまうわけにはいかなくなった。死んだあとに、急にチームの調子が良くなりリーグ優勝したのに、それが見られなかった、なんていうのはあまりにも悲しい。逆に、応援できないことが原因で、下位に低迷、最悪は降格だなんて、死ぬに死にきれない。

そういう訳で、今シーズンなかばで死んでしまうなんてことは、絶対にできないと確信した。そして次節はチームに救世主ワクチンが接種され、重傷のゴール欠乏症からも生き返り、ゴールを重ね勝利する。このままシーズンを通して好調を維持し、優勝とまではいかないまでも、トップ4でフィニッシュするところを見たい。さらに若手中心に入れ替わったチームは、その後10年以上もCL圏内を維持し続ける。そこまでずっと生きて、もう一度エミレーツで生のアーセナルを観戦したい。

  

死の問題を考えるのはそれからにしよう。そう、だからそれまでは、人混みは避け、手洗い・消毒を徹底し、マスクは完全にして、ウイルスを遠ざけよう。

ブレントフォード対アーセナル

2021年8月13日

東京郊外に住む中産階級の日本人は、男であれ女であれ、この地上で最もルーツを持たない生き物だ。ぼくらは、世界じゅうどこでもいいから違うコミュニティに属していたいと思っている。東北人や九州人、関西人や沖縄人、金持ちや貧乏人、アメリカ人やオーストラリア人でさえ、居酒屋やバーに座って涙をこぼすことがあり、歌うべき歌があり、その手につかんで固い拳を作るべきことがある。だがぼくらには何もない。少なくとも、欲しいものは手元にはない。そして似非帰属心現象がおき、歴史やバックグラウンドが捏造され、受けいれ可能な文化的アイデンティティが作りあげられる。

 

郊外育ちであることがどんな意味をもつのかわかる年齢になって以来、ぼくはずっと、どこか違う場所で育ったらよかったのにと思ってきた。わが町のチームがあり、そのチームを応援しに集まるアイデンティティを同じくする人たちが埋め尽くすスタジアムがすぐ近くにある。そんな場所で育ちたかった。それがノース・ロンドンなら最高だった。

 

だが東京にはそんな町はどこにもない。FC東京ってどの町のチームだ?そもそも東京という名前は広すぎるし、スタジアムのある東京郊外のどこかに改名すべきだ。(トラック付きで選手との距離も遠く、大きすぎるスタジアムは最悪な文化の象徴だ)。また打算だけで川崎から移ってきた東京ヴェルディにも愛着心が湧くはずもない。

ホームタウンが東京都だなんて、ばかばかしいにも程がある。戦後日本各地から移り住んできた人たちの集合体の東京都に帰属意識なんて何もありはしない。

 

ブレントフォード対アーセナルの2021-22シーズンの開幕戦は、ぼくのこのような思いをさらに強くするものだった。今シーズン最初の相手は昇格組のブレントフォード、プレミア初昇格というだけでなく、トップリーグは1947年以来というから、実に75年ぶりのトップリーグでのゲーム。

スタジアムは75年間この日を待ち望んで応援し続けたファンで満員、喜びと熱気で満ち溢れていた。

 

  

日本人の目からすると、コロナはいったいどこに?大丈夫なのか?と心配になるが、誇らしいわが町のチーム・選手の入場に声援はさらに大きくなり、監督もサポーターを煽って、ムードは最高潮に。

 

これこそイングランドサッカー、スタジアムも1万7千人とちょうどいいサイズで、ピッチも近い専用スタジアム。このスタジアムはロンドン近郊にあり、ヒースロー空港に着陸するときに見えるのがこのスタジアムらしい。

 

こんなチーム・スタジアムが練馬にもあったらいいのにとうらやましく思えてくる。しかし、東京郊外の練馬は、ぼくも含めて移り住んだよそ者の集まりで、帰属意識が欠けている。ここは生まれた町、北区がいい。北区には、旧陸軍造兵廠(兵器工場、母が動員で働いていたらしい)があったところだから、ノース東京で、ガナーズの愛称にピッタリだ。夢想は止まるところを知らない。

 

初プレミアの至福と感動、熱気でいっぱいのサポーターと選手が一体になり最高の雰囲気となったスタジアム内で我がチームは、ボールは保持するもなかなか決定機は作れず、逆に一瞬のスキを突かれて先制点を献上する。さらには、見ていて危ないなと思われたロングスローで案の定2点目を許した。

ゲームはスタジアムの雰囲気そのままに、相手のペースに。

アルテタの選手起用は、スタメンも交代策もこれまで通り謎のままで、打開できず、そのままゲーム終了のホイッスル。

心やさしいアーセナルは、75年ぶりのトップリーグでのゲームを喜ぶブレントフォードの人々に勝利をプレゼントした。

 

21/22シーズンもまた、相も変わらぬアーセナルが続くのか不安だが、それでもぼくは懲りなかった。それは、夢の中でぼくが生まれ育った町は、ノース東京ではなくノースロンドン、そしてその町のチームが我がアーセナルだから。

アーセナル対アストンヴィラ

2020年11月8日

「マンCからレスター、ヴィラと何度も何度もゼロゼロを食らいやがって」――新シーズンが始まってから何回も、そう言って不満を並べるばかりだ。「寒いだけで、退屈な日曜の深夜ばかりじゃないか」

20-21シーズンは、リヴァプールには負けたもののフルハム、ウエストハム、シェフィールドユナイテッドには勝利し、3勝1敗とまずまずのスタートにみえた。だが5節以降全く点が取れず、マンUには何とかPKで1点取って勝ったものの、守備優先だが守りきれず、攻撃はアイデア不足で、何とも歯がゆいゲームが続いた。

マンC戦も、監督同士のかけ引きが面白くて見ごたえがあったなどという戦術好きの解説者の話はあったが、ぼくには良さを殺し合う面白みに欠ける退屈でつまらないゲームとしか思えなかった。

レスター戦は、ボールは保持してはいたが、ただ回すだけで、アイデア・決定力なし、カウンターに追いつけずヴァーディーに決められ、最後まで得点の匂いを感じることなくゲーム終了。

ヴィラ戦は、ボールを追いかけるばかりで後半は息切れ、FWはボールを収めることもできずスピードにも欠け、得点ははるか遠くに感じられた。ヴィラはグリーリッシュを始めとして切れ切れでアイデアもあり、良いゲームをしていた。アルテタのやりたいことは良く分かるが、ラカゼットには守備をさせすぎだ。元々スピードはないからカウンターは難しいし、後半は疲れ切っていて、攻撃時に迫力がない。エジルが使われないのも、アルテタのやりたいサッカーをしないからだとは思うが、例えエジルがアルテタの指示通りのサッカーをやったとしても、逆にエジルのセンスは生かされず、平凡な選手になってしまうだろう。

   

これからアーセナルはどうなっていくのだろうか?

しかし、いろいろ文句はあっても結局ぼくはアーセナルのフットボールが好きだ。昔の1‐0アーセナルも、ベンゲルのボール保持主体の華麗なフットボールも、結局何がしたいのか分からなかったエメリの采配も、いつでもすべてのアーセナルを受け入れてきた。

そんなときだ。ぼくはアストンヴィラとのゲームのあと、ある発見をした。少なくともフットボールに関して、ひとつのチームを好きになるのは、勇気や親切などといったモラル上の選択などではない。それはむしろ、イボやコブのようなもの――体について離れないものだ。夫婦の関係でさえここまでシビアではない。家庭を離れたところで浮気を楽しむかのように、ちょっとトテナムを応援してみたりするアーセナル・ファンなど、ひとりもいやしない。もちろん離婚の可能性はある(あまりに成績がひどければ、見るのをやめればいい)。けれど、新しい相手を見つけるなんて不可能だ。屈辱的な負けを喫するたびに、辛抱、忍耐、寛容の精神を学んだ。やれることなど、何ひとつなかった。それがわかると、あとはフラストレーションに身もだえするしかない。

もちろん、アーセナルの退屈さには何度も煮え湯を飲まされた。そしてもちろん、彼らには何千億というゴールを決めてもらいたいと思ってもいる。気迫を持ってプレイしてもらいたいし、ラムジーが11人いるかのようなスリルを味わわせてもらいたい。でもそんなことはありえない。

彼らが情けないシュートを放ち、パスをミスするたびに、ため息やうめき声をあげて生きてきた。ぼくはアーセナルに鎖でつながれてしまっている。どこにも出口なんてなかった。