珍しく気まぐれブログの続けての更新てへぺろ

 

でもそんな珍しいことをしているからか、ボタンを間違えてせっせと書いていた内容が操作を誤って全部消えましたガーン

 

気を取り直して一から書きます。

 

消えたブログは結構調べて書いてただけに残念…無念えーん

 

そんな前説は置いといて、駒止地蔵尊と長宗我部盛親の墓所がある蓮光寺の南隣に長講堂という寺院があります。

 

門前には大きな石柱に「元六條御所 長講堂」とあります。

 

こちらは西山浄土宗の寺院で正式名称は法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)といいます。

 

長講堂とは一般には法華経を永遠に讃し、阿弥陀仏を念じて三昧境に入る道場という意味なのですが、後白河法皇の建立したこの長講堂がもっとも有名なものとなりました。

 

ここから東南の地にかつて後白河法皇が造営した法住寺殿があった話は先日書きました。

 

こちらのブログもどうぞ ⇒⇒⇒ 三十三間堂と法住寺

 

 

法住寺殿で院政をしていた後白河法皇ですが、木曽義仲(源義仲)とこじれた関係となってしまい襲撃を受け、幽閉されてしまいます。

 

その時(法住寺殿の戦い)に法住寺殿は焼失しました。

 

その後、源範頼、義経兄弟による木曽義仲征伐で法皇は救出され、幽閉を解かれます。

 

そして寿永2年(1183年)に六条西洞院(ろくじょう にしのとういん)に新たな御所を造営して院政を復活させます。

 

地図でいうと六条通西洞院通の交わる辺りですかね。

 

世の人はこの御所を六条殿と呼びました。

 

この六条殿に後白河法皇が念持仏や位牌を祀る持仏堂を建てたのが長講堂の始まりといわれています。

 

いろいろと調べましたが、正確な場所はわかりませんでしたが、恐らく六条西洞院の南西角あたりだったのではないかと思います。

 

六条殿が造営された当時、下の地図にあるお西さん(西本願寺)もお東さん(東本願寺)もまだありません・・・当然ですがキョロキョロ

 

ところが、文治4年(1188年)に六条殿とともに長講堂が焼失してしまいます。

 

すぐさま六条殿と長講堂は再建されるのですが、後白河法皇は法住寺殿にとても愛着を持っていたので、法住寺殿の復興に執念を燃やしましたともいわれます。

 

残念ながら後白河法皇の悲願であった法住寺殿の復興は達成されませんでしたが、かつて法住寺殿があった場所に法華堂が建てられ、その亡骸を祀ったのが現在の後白河法皇御陵です。

 

 

さてこの長講堂ですが、承元2年(1208年)にまたもや六条殿とともに焼失してしまいます。

 

そのため、長講堂は土御門東洞院殿(つちみかど ひがしのとういん どの)に移転します。

 

この場所は正親町小路土御門小路の間、そして東洞院通高倉通の間ということが分かっています。

 

正親町小路は現在の中立売通り、土御門小路は現在の上長者町通りにあたります。

 

これを地図に落とし込んでみると下の図のようになります。

 

 

この黒丸で囲まれたところが土御門東洞院殿です。

 

その後、いつの時代かはわかりませんが長講堂だけ元の場所に戻されるのですが、土御門東洞院殿にあった長講堂は別院として残されたそうです。

 

土御門東洞院殿はたびたび火災に遭い、土御門油小路に移された時期もあったそうですが、応永8年(1401年)の火災で土御門東洞院殿を再建するにあたり、時の将軍・足利義満が「土御門東洞院殿は小さくて人臣の屋敷と大差がない」といって内裏を整備することになり長講堂は移転することになったそうです。

 

あっち行ったり、こっち往ったり大変なことです。

 

ちなみに義満によって整備された内裏が京都御所の原形となり、幕末まで皇居となるのでした。

 

地図に落とし込むとこんな感じですかねキョロキョロ

 

 

安土桃山時代になって、豊臣秀吉が京都の街並みを大改造するのですが、その時に現在地に強制移転をさせるのですね。

 

お隣の蓮光寺も同様に同時期に移転されてきたのです。

 

この秀吉の京都の街並み大改造はいつか書いてみたいと思います。

 

最後に読みづらいかもしれませんが、門前にあった説明板を。

 

 

長講堂の門前には大きな石柱に「元六條御所 長講堂」とありましたが、まるであたかもここに六条御所があったかのような印象を与えますが、読んでいただいたようにそうではありません。

 

これでは何も知らない人に優良誤認を与えてしまいます。

 

あきまへんで京都市てへぺろ