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 10・20代の俳優を主人公としたドラマが減り、学校を舞台にした物語は映画作品で増えつつあるこの頃。人気グループ・嵐の櫻井翔主演の日本テレビ系連続ドラマ『先に生まれただけの僕』(毎週土曜 後10:00)は学園ドラマでありながら、櫻井演じる商社マンが会社の不採算部門である私立高校の校長先生に就任し、学校改革に乗り出す…という社会派ドラマの面を持った作品だ。どのようにこの一風変わった物語が誕生したのか、『Mother』『Woman』など数々の社会派ドラマを手掛けた次屋尚プロデューサーに話を聞いた。

【写真】教師役の蒼井優

■“キャスター”櫻井自身を投影させたキャラクター

 作品の根幹となるのが学校外という全く違う社会からやってきたある種の“異物”である櫻井の存在。演出の水田伸生監督は自身手がけた同局連ドラ『ゆとりですがなにか』(2016)から“若者の貧困”という着想を得ていた。「単純に櫻井さんが貧困の若者を演じるのではひねりがない。貧困の若者が演じるこというより、そういう社会があることを伝える使命を持った大人を描こうと始まって、それは誰が伝えるべきか。教師が伝えるべきだ。中高生に向けて教師がそれを伝えようと」。

 「では櫻井くんを教師役に…となるなかで、そこも福田さんが一捻りして優秀な商社マンだった主人公が商社という組織の仕組みで、ある種の理不尽な人事異動により校長になり、その校長が学校改革に向き合う話にすれば会社ドラマも描けるし、学園ドラマも描ける。学校が経営している不採算部門に校長として送られるということなら、リアリティもあるだろうと」。こうして“35歳の校長先生”という設定が誕生した。

 3話まででは校内の問題に直面した鳴海が悩んで迷って考えた結論を終盤、生徒や教師たちに言葉で伝えてきた。鳴海のキャラクターも櫻井本人に寄せた部分があるそうで「櫻井さん本人もお話していると『間違っているかもしれないんですけど…』と前置きをいれながら、僕はこう思うんですよ、とお話される。威圧的なしゃべり方はしない方なのでそういうキャラクターも今回の校長にはあっているなと。ご本人のキャラクターを投影させたつもりです」。

 「櫻井さん自身がキャスターを務めていることで彼が考えたことをしゃべると力強さがある。『NEWS ZERO』でも与えられた原稿を読むだけでなく彼自身の考えが反映されているので、このドラマでも鳴海校長がしゃべっていることなのに、櫻井さん自身の言葉のように見えれば普通の俳優さんが演じるより耳を傾ける層も幅が広がるに違いないと思いました」という“オピニオンリーダー”的な役割を期待して鳴海というキャラクターが出来上がっていった。

■「ヤンキー学園に型破り先生」からの脱却 舞台は教室から職員室へ

 かつて学園ドラマの定番だった土曜ドラマ枠。学校を取り巻く問題や環境が変化するなか、それを舞台に描く作品の世界でもさまざまな試行錯誤を積み重ねている。放送時間は午後9時から10時台に繰り下がり、「お子さんだけでなく親世代にもみていただけるドラマ」と大人世代に刺さるものを目指す。

 次屋プロデューサーは「生徒がメインなのではなく職員室の話を描きたかった」という。「学園ドラマは子どもたちがメインというイメージですが、今回はいわゆるヤンキー学園に型破り先生現る、けんかしながら友情を深める…というのを辞めようというところから企画が始まりました。強いて言うなら“職員室のドラマ”にしようと。劇中で生徒たちは問題も起こしますし、その生徒たちとの向き合い方をテーマにはしていますが生徒がメインではなく、先生たちの葛藤や職員室での模様をメインにしているので学園モノとは違ったドラマだと思っています」。

 確かに作品のなかでは、鳴海に反発しながらも理解を示していく真柴ちひろ(蒼井優)、生徒の学力向上のキーポイントとなるアクティブラーニング型授業のノウハウを持つ英語教師・島津智一(瀬戸康史)などレギュラーの学校関係者は11人いる。リアリティある教師像をつかむため、「辞めた人にも取材したし、辞めて今は塾の先生をやっている人、授業のプロもいれば本を出している人もいました」と、徹底取材主義である脚本家の福田靖氏ともに、20人以上の学校関係者を訪ね、教師の生活や職員室での人間関係まで深掘りして聞いていったそう。

 もちろん物語は先生だけでは進行せず、問題を抱える生徒たちにもスポットが当たる。生徒役全員、約270名を全員オーデションで決定。水田監督のアイディアで普通なら「生徒A」とするところ、そのすべての生徒に役名とキャラクター、性格、部活、成績までバックボーンを付けた。

 「セリフがなくても登下校シーンがあれば同じ部活の子が固まるし、そのときに部活の道具を自分から持ってきたりする。そうするとまんま自然体に学校が再現できちゃう。弓道部だったら髪を短くしたり運動部の子は運動部っぽい格好をしている。もちろん設定は自分が勝手に決めるのではなくてオーデションのプロフィールや雰囲気で監督・助監督が決めているのですがその役を自分自身が演じている。演じる意欲もリアリティも生まれてきます」。

 1、2話では味方がほとんどいなかった鳴海校長だったが、3話から生徒の学力向上のため『アクティブラーニング』という新しいスタイルの授業に目を付ける。このことが功を奏するのか。いよいよ学校改革が始まっていく。生徒の問題を爽快に櫻井が解決したり、明確な悪いヤツをやっつけるような展開はないがSNS上では親子での視聴も多く、丁寧な描写に感心する声や「考えさせられた」という意見も多い。ストーリーはまだまだ序盤。櫻井だからこそ演じられる主人公、そしてこれまでになかったリアルな“学校”の描き方で学園ドラマの歴史を変えるかもしれない。





 【東京】ゴジラはこの60年間で大きな進化を遂げてきた。



 1作目が日本で公開されたのは1954年11月3日のことだった。そのときのゴジラは竹、木綿布、和紙、針金、その他間に合わせのもので作られたと開米プロダクション会長で85歳の開米栄三氏は振り返る。



 それはデジタル技術を駆使する魔術師たちが映画『T-レックス』や『トランスフォーマー』を作り出すはるか以前、さらには『スター・ウォーズ』、『ジュラシック・パーク』、『アバター』などが制作されるよりも前のことである。



 今や数人しか残っていない最初のゴジラ映画を制作したチームの1人である開米氏は「造形でこんなの作ったの、初めてだったんです。その頃、プラスチックやウレタンなんかないです」と語った。「苦労の連続だったけどね」。



 今年、世界中で公開されたギャレス・エドワーズ監督の『ゴジラ』の特殊効果チームは楽だったと言っているわけではない。ゴジラをよみがえらせたムービング・ピクチャー・カンパニー(ロンドン)によると、コンセプトアートからゴジラを作り出すのには7カ月を要したという。骨格から始まって、脂肪、筋肉構造、ウロコの厚さや質感などが加わり、ゴジラのからだが完成した。ボックス・オフィス・モージョーによると、このハリウッド版『ゴジラ』は全世界で5億2500万ドル(約572億円)の興行収入を上げたという。



 デジタル革命が自分の作った怪獣に新たな命を吹き込むのを目の当たりにできるとは、長生きしていて良かったと話す開米氏はハリウッド版リメークを高く評価している。「すごいなと思いますよね、やることが」と同氏は言う。「あんなもの作られたら、私ら商売にならないからね」。



 とはいえ、1954年の夏に開米氏のチームが苦労してゴジラを生み出していなければ、リメークが作られることはなかったという事実に80代の同氏は誇りを感じている。



 東宝スタジオと契約する前、開米氏は遊園地のお化け屋敷で使われるような実物大の人形を作って生計を立てていた。開米氏にとって映画俳優と共同で働くのは『ゴジラ』が初めてだった。その初日、同氏はゴジラの見本となる粘土模型を渡され、仕事に取りかかるようにと言われた。



 ゴジラの胴体の外側はゴム素材でできていた。制作チームは足の部分に関して、ゴム長靴を改造することを思いついた。



 第2次世界大戦が終わってから9年しかたっていなかった当時、そうしたものが手に入るのは東京築地の魚市場だけだったと開米氏は言う。



 監督、デザイナー、俳優陣、プロデューサーなど、すべての関係者が怪獣の外観がどうあるべきかという要望やアイデアを出した。開米氏はそれに応じてゴジラの皮膚にコブを足したり、減らしたりした。



 「楽しいというより、みんな四苦八苦で大変だったですよ」 と開米氏は振り返る。完成した試作品は失敗作でもあった。



 「一体目は完成してダメだっていうのは、すぐわかりましたからね。関節が重くて動かない」 と同氏は説明する。「それに、100キロはありました」。



 ゴジラ映画の第1作はうだるように暑かった1954年の夏、8月から10月のあいだに撮影された。俳優の中島春雄氏は、開米氏が作り直したが、それでも約60キロあったスーツの中がどういう状態だったかを今も覚えている。



 現在85歳の中島氏は「(中は)60℃ありました」と振り返る。1テイク撮り終えるごとにゴム製の着ぐるみを脱ぐと、シャツからは汗が滴り落ちていたという。



 中島氏に言わせると、ハリウッド版『ゴジラ』で科学者、芹沢猪四郎役を演じた渡辺謙氏は「まだぺいぺい」だ。1954年の第1作でゴジラを研究する考古学者を演じた志村喬氏を引き合いに出し、「渡辺謙さんはまだ若いからね。志村さんとは重みが違うね」と語る。



 中島氏にとっての課題は、恐ろしい怪獣の動作を開米氏が作ったスーツでどう表現するかだった。監督の本多猪四郎氏と特殊技術監督の円谷英二氏からはゴジラの動きの工夫に関し、ほぼ任されていたという。中島氏は参考のために動物園を訪れ、熊や象といった動物を観察した。



 「最初は誰もゴジラの動きがわからない。自分で研究して発見した」と中島氏は話す。それでも、結果はコンピュータープログラマーが生み出したものをしのいでいると今も信じている。



 「コンピューターでやるの、全然違うね」と同氏は主張する。「気持ちが入ってないよね、なんとなく。人間が入って、苦労したという感じが出る。だけどコンピューターで、こうサッとやると、マンガみたいに見えちゃうんだよね」。



 当時の監督たちには、撮影した映像をその場でチェックするためのiPadがなかった。撮り直しをする時間も資金もないことは誰もが承知していたので、セットは緊張感に包まれていた。3台のカメラと約80人のスタッフが見守るなか、ゴジラを身にまとった中島氏は野蛮に、それでいて注意深くミニチュアの街並みを破壊しながら歩いた。



 同じ撮影所内では黒沢明監督が『七人の侍』を撮影していた。「黒沢さんは表には出ないけど、隠れて見てましたよ」と中島氏は言う。「(黒沢監督は)好きなんだよね」。



 東宝は『ゴジラ』の劇場公開日をすでに発表していたため、最後の数日間の撮影は24時間態勢で行われた。主演男優の宝田明氏がその映画のことを本当に理解したのは、1カ月に及ぶ撮影スケジュールの中盤に差しかかった頃だった。



 ゴジラを倒す手助けをする技師・尾形秀人役は、当時20歳だった宝田氏にとって初めての主役だった。同氏は当初、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせた造語である『ゴジラ』というタイトルさえ理解していなかった。



 「初日に襟を正して、セットの中にいた大勢のスタッフに『新人の宝田明と申します。主役をやらせていただきます』と言ったら、『バカヤロー、主役はお前じゃない、ゴジラだ』と言われましたけど」と同氏は明かした。



 ゴジラの体重は200トン、体長は50メートルだと聞かされていたが、宝田氏にはその数字がピンと来なかった。



 監督は雲を見上げて怪獣が近づいてくるのを想像しろと助言した。助監督は長い棒を頭上に掲げ、その先端がゴジラの頭部であるかのように目で追うことを指示した。また、9階建てのビルと同じくらいの高さにゴジラの胸があると想像するように言われた。



 撮影は時に機能不全に陥ったが、最終的にはそのテーマについて、ゴジラは広島、長崎への原爆投下、そして1954年3月にビキニ環礁で実施された米国の水爆実験に対する日本の反応だということでチームの意見がまとまった。



 スタッフと俳優陣の誰もが何らかの形で戦争を経験しており、ゴジラは人類に戦争や核兵器への警告を発するために神から遣わされた「聖獣」だという結論に達したと宝田氏は説明する。同氏と制作スタッフは、1956年に米国で最初に公開された再編集版から反核という切り口の大半が消されていたことを残念に思ったという。



 1954年11月に公開された『ゴジラ』を、約960万人の日本人が映画館で見た。当時の日本の人口は8800万人。革新的な視覚効果に加えて、反核、反戦メッセージが観客を引き寄せたと宝田氏は信じている。



 宝田氏はその映画で35万円の出演料を受け取ったことを覚えている。飲み屋のツケの一部を返済し、中古車を買うには十分な額だった。



 『ゴジラ』の撮影終了後、スターになった宝田氏は今も映画、舞台、テレビで活躍している。



 スーツアクターの中島氏はゴジラ役を10本以上の続編で演じ続け、バラゴン、マタンゴ、モスラ、バラン、モゲラ、ラドンといった他の怪獣役でもスクリーンに登場している。1970年代に俳優業を引退したが、今もゴジラファンに会うために世界各地を訪れている。



 着ぐるみを担当した開米氏は、『ゴジラ』が大ヒットした後に撮影所から500円のボーナスを受け取ったという。「一杯飲める程度だった」と同氏は言う。



 撮影最終日、開米氏は他のスタッフと共に撮影所の床を掃除し、ゴジラの着ぐるみを倉庫にしまった。翌日には、別の映画の撮影でロケに出掛けていた。



 鍵のかかる倉庫にしまった怪獣が、自分が制作に携わった怪獣が、60年後に太平洋を横断して米国の都市を壊滅させるなど、当時の開米氏には知る由もなかった。?





By JUN HONGO and CHIEKO TSUNEOKA