これでおれたちの仕事も終わったというわけだ 第十八話 「やめておけ」
おはようございます。
続きです。
もう、眠くて。
来週は健康診断とかで、
その日は、24時間、寝れない状況になるようで、
ちと断ろうかと考えているコウでございます。
やはり、人間、睡眠は大事です。
さて、何でしたっけ。
そう、今日はパチンコに行くつもりが、
午前中に、エホバのおばちゃんたちが来られて、
いつの間にか、寝ていましたの。
私は、エホバの証人に入会をするつもりも予定もないのですが、
同じ宗教の分野なので、異業種での情報交換のようなものかな。
でも、前にも書きましたように、エホバのおばちゃんたちって、
創価学会のみなさんとか、崇教真光のみなさんなどと比較をして、
どこかしら、穏やかで、純粋な印象があります。
私も、けっこう、ズバズバと発言をしたがるほうなのですが、
どのような内容であっても、今のところ、そう、怒られる感じがないのですよ。
動物のように、ガーっと牙を剥いて、襲いかかって来られる気配はないですね。
ここらへんは、他の妙な宗教の信者のみなさんと違って、
好印象であり、尊敬ができるところです。
あぁ、いつもの余談ですけど、
昨日なども、原本のようなものの複製を続けてきた聖書そのものに、
致命的に間違っているかもしれない箇所がある可能性があり、
そのすべてを、100%、信用ができる根拠などないのですよと、
或いは、外国の言葉で綴られた聖書を、日本語に翻訳をする段階においても、
その翻訳について、100%、信用ができる根拠などないと伝えたわけです。
それは、日本で広がっているところの仏教でもそうです。
日本仏教は、大きく13宗56派と呼ばれるくらいに、
その根本的な教えが、どのようなものだったのかすらも、
すでに、わからんようになっているのではないでしょうか。
ここで、恐ろしいことは、同じ釈尊が説いた仏教でも、
インドから中国に渡り、中国から日本に渡って来た過程において、
仏教を有神論のように解釈をしている日本仏教の宗派もあれば、
その真逆で、無神論のように解釈をしている日本仏教の宗派もあるということです。
人間、死んだら何もかもなくなるという仏教の解釈と、
人間などの生物には魂が存在をするので、
他界した後は、他の世界に旅立つのだ・・・ という仏教の解釈があるわけです。
んじゃ、どっちなの?って、なるのですね。
結局は、過去、どんなに悟りの高そうな偉人のみなさんが、
人間の人智を超えたような高度な教えを説かれていたとしても、
千年も、二千年もしたら、正しく伝わっていることのほうが難しい、ということかもしれません。
それ故に、仏教の経典であったり、キリスト教の聖書であったり、
何となくでも、ありがたそうな教えや書物であっても、
現存をしているもので、100%、その内容が信用できるものなどないのではないのか、
そうした発想を、私は持っています。
その意味で、古典的な、仏典絶対主義や、聖書絶対主義は間違いだとも考えています。
何事も、前提が正しくなければ、いろんな対象を惑わせることになりますからね。
以上、余談でした。
続きます。
ありがとうございました。