富豪中の富豪と言えば、ロックフェラー一族。その創始者ジョン・D・ロックフェラーの資産を現代の価値に換算すると20兆円に上ると言われています。20兆という数字があまりに大きすぎてピンとこないかもしれませんが、現代の億万長者の総資産と比較してみると、あのマイクロソフト創設者ビル・ゲイツでさえ7兆円ですから、その凄さは歴然です。
ロックフェラーは石油事業で大成功を収めた後、人世の後半を慈善事業に投じました。1913年にロックフェラー財団を設立。やがてこの財団が慈善事業の中心的役割を果たすことになります。
ロックフェラーは財団活動に精力的でした。注ぎ込んだお金も膨大で、特に科学と医学の分野においは目覚しい業績を上げました。ただし、その活動をどのように評価するかは、最近に至っても意見の分かれるところです。それは「財団活動は世間を欺くための道具である」という見方があるからです。
少し前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入ります。
財団シリーズの
第1弾は『アメリカの財団はとっても大きい!!\(@o@)/!!』
第2弾は『財団の始まりって?』
第3弾の今回は『ロックフェラーは、なぜ財団を設立したのか?』。このテーマを財団設立に至る経緯・背景も踏まえながら、
①財団に係わる免税待遇
②世論かわし
という2つの切り口から扱っていきたいと思います。
■当時のロックフェラーの状況は?
~石油事業で巨万の富を得る~
それではまず時代的な背景を踏まえるために、ロックフェラーが財団を設立した1913年当時の様子を見ていきたいと思います。
彼はツイテいた。当時、開削が始まったばかりの新興事業、石油に出会ったのである。・・・⇒リンク
※「井上篤夫の眼」より引用
しかし、すべてが順調だったわけではありません。利益を消費者に還元せず高価格で販売するビジネス手法が世間の反感を買いました。独占に対する世論の批判と政治的攻撃(世論を反映して成立した独占禁止法違反で提訴)が強まり、ついにスタンダード・オイル社は解体されてしまいました。
しかし、転んでもただでは起きないところが、さすが利に聡いロックフェラーです。それ以降も大株主として影響力を持ち続けました。旧スタンダード系の企業の株価は上昇を続け、1913年には22兆円の資産に膨らみました。
■ロックフェラーが財団を設立したのはなんで?
a)税金対策
ロックフェラーは1900年頃から、石油で築き上げた莫大な財産をどうやって維持していくかということに頭を悩ませていました。
ⅰ)遺産税対策
仮にこの22兆円がロックフェラーの財産のまま子供に遺産として受け継がれることになると、半分は遺産税として国に持っていかれます。
そこでロックフェラーは財産を子孫に相続するに当たって、信託財産として財団に移動することを考えました。そうすれば、先ず財産に移した基本財源は、遺産税などの課税を免れ、その額が減ることはありません。そして、信託基金を運用して得られた収入からロックフェラーの子孫は元本をだけを受け継ぎます。さらに、これらの資産を持つ財団の運営権はロックフェラー一族がもつことになるのです。つまり、寄付したことで自分のお金ではなくなっても、それを実質的に支配し使い増やす権利を得る訳です。
しかも、財団を解散したときに、その信託基金は日本では国に吸い上げられますが、アメリカは寄付をした受益者に帰ります。このように考えると、これは財団を隠れ蓑にした資産隠しです。
ⅱ)所得税対策
ロックフェラー一族は毎年、彼らの利益の半分をお気に入りの財団につぎ込み、彼らに課せられた所得税からその「寄付金」を差し引いている。ネルソンは議会の公聴会で、「財団というものは資本利得税も所得税も払わないのでどんどん資産が増えてしまうものなのだ」と述べているが、それは自然に増えるだけでなく、意図的に増やす事も出来るのである。幾つかの財団を免税の為に利用して資産を確保して置くことは、彼らが財団から得ている利益の一つに過ぎない。ビジネス・ウィーク誌が「最も私的な財団の背後に隠された真の動機は財産管理を継続する事である」と指摘しているように、財団から更に大きな利益を得ている。彼らは巨額の利益を引き出すことが出来る。実際にこの問題を調査した下院銀行委員会の議長ライト・バットマン議員は、「ロックフェラー財団およびその系列財団は巨大な資金力を背景にかってない規模の”市場操作”をしており、そこから巨額の不正利益をあげる為に共同歩調をとっている」と告発した。
※「皇室攻略に踊らされた日本人」 より引用
したがって、公益的な活動を行う財団を設立すれば、財団に自己の財産を移動することにより所得税額の減免を得ることができました。この免税措置を利用すれば、同業他社に対して競争上かなり有利な立場に立つことができたと考えられます。加えて、免税措置の適用を受けた財団に対する個人の寄付について、所得から寄付額の控除が認められました。
この寄付を受ける側だけでなく、寄付する側にも免税待遇が与えられるという二重の免税待遇によって、財団は次々と設立されました。
財団は主要な銀行、企業、大学、政府機関さえも巻き込み、それぞれ利害関係に基づいて妥協、協調を図りながら社会的影響力を増していきました。
b)世論かわし
ⅰ)持つものに対するねたみ、中傷をかわす。
20世紀に入ると、「独占」による企業オーナーへの攻撃はさらに激化します。・・・⇒リンク
※「マンハッタンを歩く」より引用
ロックフェラーは経営の第一線から退き、篤志家の道を歩み出しました。時間と労力の大半を慈善事業に費やしましたが、それを以ってしても、独占によって巨万な富を築いた冷徹な実業家というネガティブなイメージを払拭することはできませんでした。これが財団活動にも大きな影響を及ぼしました。民衆は財団に対しても、富豪が社会的影響力を行使し、社会を牛耳るための道具であるという見方をしたのです。
このことにロックフェラーは頭を悩ませていたようです。そして人生の後半は、自分たちの財団の運営と、財団に係る議会への働きかけという2つの課題に取り組みました。
1901年、ロックフェラーは初孫がしょう紅熱で死亡したことを機に、息子と慈善事業の顧問であるフレデリック・T・ゲイツの進言を受けて、社会貢献が明瞭で心象のよい医学研究所を設立しました。「孫の死は神から与えられた罰と受け止め、深く回心して善意の人に変身する。」という筋書で世間の同情を誘い、財団活動に対する大衆の支援を得ることを意図していたと考えられます。1902年に総合教育財団、1909年にロックフェラー衛生委員会と続きました。
ゲイツは「科学の精神と技術を正しく評価するかどうかによって、その国民の精神的姿勢が決まり、教育体制全体に影響を与え、その国の文明形成をももたらすのである。」と公言していました。公衆衛生や医学、農業などの関心領域(=科学的分野)において次々と投資を進め、事業としては一連の成功を成し遂げています。
また、ロックフェラーが世間の賛同を得ようと必死な様子は、ロックフェラー財団設立の一事をもっても推察できます。
理事たちに、合衆国議会かあるいはどこか適当な州議会に法人設立の許可を申請するように命じたのである。その許可が下りるまでは正式に財団を発足させ基金を移譲することができなかった。こうして1910年3月、ロックフェラー財団の許可をめぐる議案が上院に提出される。これは結果的には3年がかりの大騒動となった。
(中略)
ロックフェラーとしてはどこの立法機関にも設立許可を求める必要は全く無く、ただ単純な信託行為として財団を創設することもできたのである。しかし、たとえある程度政府の規制をうけようと、自分の所有財産を公の目的のために譲り渡すことに対して世間の賛同を得たいというのがロックフェラーの考えだったらしい。
※書籍「アメリカの大型財団」より引用
財団活動を規制する立法活動が議会で活発化する状況に対して、財団側もただただ手をこまねいていたわけではありません。ロックエラー財団設立の経緯は上述の通りですが、この奇妙なエピソードに関しても、政治的な圧力が働いていたと考えるほうが自然です。というのも、すでにこの頃からロックフェラーは議会の有力者と個別のコンタクトを持っていました(オルドリッチ家・スティルマン家と婚姻関係を結んでいました。⇒リンク )。そして、政策立案に関与し、財団活動に不利な法律や税法が作られないように影響力を与えていたのではないかと推測されます。
ⅱ)自らの原罪意識からの脱却
ロックフェラーは慈善事業に身を投じましたが、実はずっと若い頃から毎月、収入の一部を教会に寄与していたことが知られています。その資産が大きくなるにつれ、寄付金の額も増えていきました。その大部分が教会関係のものでした。そして、財団活動もその延長線上に位置づけられます。
ロックフェラーは母親の厳しい宗教的なしつけによって育てられ、敬虔なバプティスト派(キリスト教プロテスタントの一教派)信者の顔を持っていました。「富を神から与えられた者は、社会に何らかのかたちで還元しなければならない。個人が社会に献身する一つの方法として、義務として、慈善活動を行う。」この価値観は、キリスト教の教義・宗教観に基づくものです。
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