シューマンが晩年住んだデュッセルドルフからハンブルク経由でリューベックの街にたどり着いた。数日滞在の予定であるがリューベックの古典的な街自体は美しく何のトラブルも生じなかった。運河のほとりのホテルに滞在し、リューベックの音大やマリエン教会、をはじめとするドイツ古典の香り豊かな街の雰囲気を楽しんだ。

マリエン教会のオルガンコンサートを聴きに行ったのだが、日本のように何かにつけて単独に寄付を求めることを私個人は好まないが、教会のオルガン演奏会なら喜んで寄付
(といってもたいした額ではなく2ユーロである)を出す気になるのはやはり音楽がそれなりの内容を維持し、かつ音楽が人々の心を包み込む慈愛を感じるからであろう。

ブクステフーデやJSバッハの名が新鮮に響く。
200キロの距離を厭わずわざわざリューベックを訪ねてきたバッハの情熱と使命感には感動した。リューベックの音大では何人かの日本人留学生達と会った。職業上、「どのような勉強をしていますか・・」という話題になった。偶然にも私の勤務する大学関係者のお弟子さんもいたので和やかに話が進んだ。

次の日、列車で
45分かけて再びハンブルクに出向いた。雨が降ってきた。すぐに雨は上がった。街の喧騒をよそに、少し路地裏に入ったところに目的地であるブラームスハウスがあった。すぐ隣のテレマン博物館には休館日で入れなかったのだが、実は私はこのテレマン博物館を楽しみにしていたのである。バッハの生存当時、バッハよりも遙かに高い評価を受けていた有名なテレマンがどのような存在であったかをうかがい知りたかったのだが残念である。ここの博物館の通りは車も入ってこない静かな環境である。

もともとハンブルクはこのブラームスハウスを訪問したかったために設定したプランであった。ブラームスハウスでは、彼の室内楽の自筆譜などを見ることができたが、ピアノ譜以外の筆跡は極めて明瞭であり、彼自身がピアノパートを担当する意志がよく伺える。これは初期のベートーヴェンがピアノ協奏曲を書いていた時、ピアノパートは自分自身が演奏するのが習慣だったので、メモの走り書きのようなところをたくさん残していたのと同様なものであろう。

日本へのお土産に「子守歌」の自筆の写しを冊子にしたものを買い求めた。この「子守歌」は、最初の構想では繰り返し記号はつけてなかったのだが
1番だけではもったいないということでもう一度繰り返すことにしたという。「子守歌」のピアノ書法にはそれ相応の特徴があり和声進行も限られているのだが、ここでは長くなるので記さない。その後デパート巡り、そしてハンブルク唯一の楽譜屋へと向かい、「子どものための和声教本」を一冊ゲットし、リューベックに戻ってきた。

ハンブルクは想像以上の大都市であった。第二次世界大戦で攻撃を受けたが、都市として新たに再生したハンブルクは北ドイツ一の大都市であろうことは理解できた。何でもそろっており便利な街であろうが、日頃、東京郊外に住む私にとっては、あまりに巨大な都市であり、個人的にはすぐに馴染む気にはなれなかった。突然雷が鳴って大粒の雨がきた。
5分前までは晴れていたのに、なんてこった・・。あっという間に雷と雨は通り過ぎた。へえ〜〜日本のようにじわじわこないんだね・・雷と雨は・・。環境は異なるが、一瞬、ベートーヴェンの田園交響曲を思い出した。しかしそのあとにくる牧歌はハンブルクの街では想像もつかなかった・・・。