電話の向こうの声は呆れた口調で言い放った。「これを私が着るの?」誕生日プレゼントは昨日届いたはずである。
鈴木の勤務する総合商社と大手デベロッパ―、現地の公社との共同事業は足かけ10年にも渡り当初の予定より遅れに遅れをとっている。
前任者が中途半端に手掛けたプロジェクトを門外漢の鈴木が引き受けざるを得なかったのは全くの偶然でそもそも豪州の赴任が終了して一息つくもなく、全くの未知の分野の仕事を任されたのだからたまったものではない。
鈴木の予定では東京本社に戻ったタイミングで同じ商社に同期入社した婚約者と挙式をし、マンションの購入も考えていたのだからこちらの計画も頓挫したままであった。
人使いの荒い会社なのはお互い十分承知していたが彼女のほうといえば、社内でも花形のワシントンDCでの勤務を得て今は本社の広報室の室長となり、その容姿も買われたのか機内誌の企業PRなどにも登場するほどの活躍である。
時差も考えて鈴木が電話すると彼女はまだ勤務中で仕事が面白くてたまらないのだろう、「たいへんよ」といった口ぶりとは反対に生き生きとしていて電話越しに聞える喧騒とせわしなさに慌てて切り上げることもたびたびであった。
ミャンマーでの生活は東京での暮らしとは全く時間軸がずれている。
まず相手と約束しても時間通りに来ることはまれだ。道路は整備されていないし、スコールが降ればその道さえも川になってしまう。道に寝そべって動かない水牛のきまぐれに付き合うこともある。鈴木の手がける鉄道は最たるもので昔のJRの払い下げをそのまま使用しているから故障はつきものだし、道がそんなだからよっぽど線路を歩いた方がいいに決まっている人々が好き勝手に入り込んで列車のほうが人の往来の合間に運行している、といった具合である。
それでももともとジャングルでしかなかったこの土地に鉄道がひかれたのは現地の人間にとって夢のような出来事で、歩いて3時間もかかる隣町までたった30分で行けることはまさしく仏陀の贈り物であった。
おもに川の魚をとり農業で生計を立てていた小さな集落の村人は、鉄道の開通によって一気に生活が変化した。
市場ができていままで自給自足に近かったのが貨幣経済になり、人は賃金を稼ぐのに必死になった。駅舎はまさに貨幣獲得のいい商売所でこんな田舎にやってくる酔狂な旅行客に花やら果物を法外な値段で売りつけるのだった。法外といってもそれは現地の感覚で人のいいツーリストたちにとっては缶ジュース程度の出費である。
出発時刻をとうに過ぎても窓越に商売を続ける物売りたちも列車が定刻通りに運行できない理由でもあった。
列車のスピードを倍速にしてホームとは名ばかりの無法地帯に近い闇市と化した物売りたちを退去させより都市化した鉄道の実現化が鈴木の任務であった。
鉄道はJRとの交渉でより性能の良い列車を購入することでスピードの確保は可能であり、また線路の拡張と新駅を増設することによって膨大な利益が鈴木の会社にもたらされることは確実であった。
ところがこちらが性急に話を進めるのとは裏腹に現地の代理店とはうまくかみ合わず、のらりくらりとかわされてあっという間に10年が過ぎたというわけだ。
前任者との引継ぎで鈴木は苦虫をつぶしたような相手の顔が忘れられない。
「鈴木、ここは日本とは違うんだよ。無論君が過ごした前任地とも違う。ここはミャンマー、ヤンゴンなんだ」
鈴木は彼の残した言葉がわからなかったわけではない。商社マンとして各地を歴任してきた。言葉も違うし文化も違う。それは百も承知の話である。
「ウチは欧米や欧州、アラブ諸国との仕事が多かったろう。ウエも知らないんだ、アジアの辺鄙な町のルールが」
総合商社トップとして君臨する鈴木の会社は取扱ってきた商品も航空機や油田事業、鉄鋼などの国家プロジェクトに類するものが主体で鈴木もその筋には明るい。繊維や食品も取扱うがそういった部署は取扱う金額が違い花形とは言いづらく出世も頭打ちなのだ。
一橋大学を卒業しエリート候補生としてM商社に入社した鈴木の未来は前途洋々であった。中東、欧州、豪州とトントン拍子にキャリアを積んできた。美人の恋人とは遠距離恋愛の末ゴールイン真近である。それがまさかの失速だった。未開の地ともいえるミャンマーの奥地に赴任とは晴天の霹靂とはまさにこういうことをいうのではないだろうか。
現地に2年前から赴任しているという部下は空港のロビーで一際大きな声で鈴木を出迎え、一歩外に出るや取り巻く物売りを浪速仕込みの大阪弁で蹴散らかし、日本人とみるや吹っ掛けてくるサイカーに強引な大阪弁でまくしたてさらに値切るという生粋の商人であった。
「鈴木さんあきまへんって。そないにぼやっとしていたらいいカモでんがな」少し出た腹にショルダーバッグをたすき掛けにし、それを盾にするようにして契約しているマンションに鈴木を送り届けるとほっとしたように腰を降ろした。
海外赴任者専用といわれるマンションはセキュリティはもちろん施設面も申し分なく鈴木が日本で借りていた港区の部屋とよく似ていてインテリアも洗練されている。現地の所得からすると目が飛び出るほどの家賃だが、安全と機能を考えれば妥当な金額であろう。
「こっからだと町がよう見えますな」
高層マンションのベランダからは市場と駅がよく見えた。
それを取り囲むようにして小さな家々と低層の住宅。少し離れると濁った川がゆったりと流れている。その先は手つかずのジャングルがうっそうと生い茂っている。
マンションの真下の道路は半分までしか舗装されておらず、サイカ―や車が通るたび埃が舞い上がった。川には生活雑排水が流れ込むのかなんともいえない悪臭がここまでも漂い市場の魚やさばいた動物の生臭い匂いと混ざり合い我慢できないくらいになってくる。
部下の青年はそんな匂いに鼻が慣れてしまっているのか、窓を開けたまままぼんやりと眼下に映る町並みを眺めている。
鈴木が我満しかねてエアコンをつけるとようやく窓を閉めて部屋に戻ってきた。
「ここのエアコンはよう冷えまんな。ぼくとこはしょっちゅう壊れてもうあきらめてます」
「きみの家はどこなの」
「会社のすぐ隣のマンションです。僕みたいなんは呼び出されたら朝でも夜でもすぐ来いっていうペーペーですから。こんな高級マンションでもないですし。いやぁ羨ましいな、会社のエリートはこういう待遇なんですね」
赴任先が福建省とチベット、モンゴルという経歴の持ち主の部下は会社にいい加減愛想が尽きて仕事にひと区切りついたら辞めるつもりなのだ、と初対面の上司の鈴木におよそ似つかわしくない歓迎のスピーチを浴びせた。かと思えば好奇心旺盛に部屋を眺める黒縁眼鏡の奥に嫌味はなくただ部屋の豪華さに感嘆の声を上げているだけなのだ。
「とにかくここは引いたら負けです。なめられたらあかんのです」
それはどこでも同じだろう、息巻いている部下によく冷えたペットボトルを渡し明日からの予定を確認した。メイドがあらかじめ掃除をしておいてくれたおかげで部屋はすぐ使えたし、必要な生活用品は整えられていた。なにぶん男一人の所帯で荷物も少なかった。
「メシにいきましょう。旨くて安い店はぎょうさんあります」
鈴木は着替えると部下の案内する路地裏の屋台に出向いた。風上にむかって歩くと匂いは少し気にならなくなっていた。
amazonの不着エリアで生活するのは初めてである。トレーニングのための自転車を持ってきてつくづく良かったと思う。いつも通りタイマーのスイッチをいれて汗をかいてたら通いのメイドが不思議そうに鈴木を見ていた。疲れるだけなのになぜむやみに運動をするのか、といったところだろう。
語学は得意だった。英語はなんなく話せる。鈴木の赴任地で英語が通用しなかった地域はかつてなく、ミャンマーでもそれが当然だと思っていた。
が、ここでは全く英語が通じないのである。
英語が使えるのは職場とごくごく限られた取り引き相手のみ。ほとんどの人間は現地の言葉しか使えないし理解できない。鈴木は慌ててテキストを買い求めようとしたのだがそもそも本屋に日本人向きの語学の本など売っているはずもなく、本屋自体隣町まで出向かないと無い。結局頼りになるのはグーグル翻訳で日常の会話はそれですませるほかなかった。
なかなか交渉が進まないのは言葉の問題だけではなく、インフラが全く整備されていなく停電はしょっちゅうでバックアップをとりながらPCを操作していても結 局一回の停電で一日の仕事が水の泡になるのは日常茶飯事であった。
ここではオフィスが急に真っ暗になっても誰も騒がないし、何のリアクションもない。エアコンがとまってしまうので暑いから窓を開けて涼をとるのがせいぜいだ。みな慣れたもので復旧まで昼寝をしたり、同僚と話しこんだりしている。
鈴木も最初の頃は苛ついて物に当たり散らしたり嘆いたりしていたが、そのうちひとりだけ焦っているのも馬鹿らしくなり皆に習って街をぶらついてみたり、屋台を冷やかしたりして過ごした。言葉は相変わらずグーグルレベルだったが屋台の会話はその程度ですんだし、鈴木が日常で会話するのはオフィスの仲間だけだったから特に問題はなかった。困ったのは手持ちの服がことごとくダメだったことで、とにかく湿度が高いので日本で着ていたTシャツやデニムの普段着は肌にベタベタと張り付いて気持ちが悪かった。老婆が道端で売っていた藍色のセットアップを物は試しで着てみたらすこぶる涼しく重宝した。値段はべらぼうに安かった。
スマートフォンはWi-Fiが完備されているのがオフィスだけなので日常的に使わなくなってしまった。日本では一台では足りなくて2台3台と着信が鳴らない時間はないほどだったのに、気が付けば充電が90パーセントのまま一日が過ぎることもある。
小さな端末を見る習慣が無くなった鈴木が格好の時間つぶしに選んだのが読書で、岩波や新潮の文庫がこれも露店でただ同然で売っていた。カバーがとれていたり日に焼けたりしている本は日本の駐在員が捨てていったものかもしれない。休みの日は自宅にいても特になにもすることはなかった。将来自分が完成させるであろうレールはジャングルの手前で終わっている。歩いた方が早いのでは、と思うくらいの低速で列車は動く。それでも駅に到着すると大勢の人が乗り込み、物売りはけたたましく商売を続ける。列車が時刻通りに発車することはなく大幅に遅れて次の駅に到着する。人々がそれで混乱する様子はなくむしろ快適な乗り物に感謝しているようである。
小さな文庫を片手に車窓から外の景色を眺め終点まで列車に揺られていくのが鈴木の休みの日の過ごし方になった。
折返しのホームには向こう側に渡る橋脚などはなく鈴木も他を習って線路を渡った。横断している最中に列車が動き出すこともあったが誰一人慌てる者はなかった。
鈴木が赴任してからはなにがそうさせたのかはわからないが計画は少し進んだ。新駅の用地買収がここにきてトントン拍子に決まったのだ。相変わらず停電は頻繁におこり約束の時間をすっぽかされるのは日常茶飯事だったが、新しい駅ができるという噂はあっという間に広がり、商売になると知って町で華僑の姿をよく見かけるようになった。物の値段が少しづつ上り、物売りたちが片言の英語を話すようになった。せっかちの中国人が牛ほどの列車のスピードに我慢できるはずもなく、高速化は急務であった。
彼女は前にもまして忙しく鈴木が時間を見計らって電話をしてもなかなかつかまらなかった。誕生日プレゼントに鈴木があれ以来気にいっていて愛用しているこちらの生地で作った夏服を贈ろうとサイズをきいても回答が返ってこなかった。
鈴木は彼女の背格好を思い浮かべ裸の彼女を思い出してみた。
もうずっと女に触れていなかった。
繊維市場は鈴木の会社のすぐそばにあった。
びっくりするほど安い金額で、しかも早く作ってくれると評判の問屋を兼ねた市場には色鮮やかな生地が所狭しと並んでいる。客はそこで生地を選び、その場で仕上げてもらうのだった。酔狂な観光客はさすがにおらず針子の女工たちが古い足踏みミシンで半日もあれば一着仕上げてしまう。手先が器用な女たちが多く、列車が拡張し新駅ができた暁には世界を席巻している日本の有名量販店が巨大工場の建設も持ち上がっている。精密機械メーカーも生産コストの安さを見越して東南アジアから移転してくるという噂もある。
そのためには輸送スピードの大幅なアップが不可欠なのだ。
最近、不動産を巡る不確かな情報が錯綜し、本社からは矢のような催促と進捗の確認がひっきりなしにオフィスに届くようになった。しかし鈴木達は相も変わらず、停電と50年前となんら変わりのない生活を続けるこの土地の人間相手に遅々として進まない任務に辟易としながら毎日を過ごしている。
鈴木の週末の小旅行は続いていた。
エアコンもない古い車両はゴトゴトと大きな音をたてながら進み、ぎいっと軋みながらゆっくりととまる。窓の外には澱んだ川が雨季のたっぷりとした水をとうとうとたたえ、裸の子どもが魚を捕っている。
行商の老婆が大きな荷物を肩から降ろす。赤ん坊を背負った若い母親が泣いてむずかる背中の子どもの尻を小さく叩く。
毎度繰り返される同じ景色である。それはずっと繰り返されてきた景色でもあった。列車は何度目かの赤信号でまた止まってそして動き出した。