矢口が自宅に戻ったのは半月後、奇跡的に残った松濤の自宅はは無傷で彼が出勤した朝となんら変わりのない平和さである。
避難の際持ち出したという父親の位牌が微妙にずれていて、それだけがこの家に異変が起きたことを物語っている。それが習慣で先代の立派な仏壇に手を合わせると、しばらく目を閉じしばしの静寂を手に入れた。
矢口のすぐ下の妹はプロの演奏家で海外公演先のサンストペテルグブルクで一報を知り、そのまま当地に留まっていた。
母親は若干疲れが見えていたが、蘭堂の顔を見ると心底安心したような表情であった。彼女の心配はいつも末の弟の容態で今回も首都の停電で彼の生命を維持している酸素の供給が一瞬止まり、肝を冷やしたと眠り続けている弟の額の髪をそっと撫でた。
「大丈夫ですよ、バックアップがちゃんと機能してますから」
弟の心臓の鼓動をモニターで確認しながら、蘭堂は母親を安心させるつもりで彼女の肩に手を置いた。思ったより痩せてしまった肩は避難のための何泊かがいかにこの親子の過酷な状況を物語っていた。弟は生まれつきの脳障害で動くことはおろか意志の疎通も難しいが、身の危険を感じる力は鋭く怪物が東京湾に出没するのも察知していたかのようにあの朝は落ち着きがなかったという。
「食糧は十分にあったのでしょうか」
「それはみなさん同じですから」
弟は刺激の多いところが苦手ですぐ発作を起こす。避難所はどこも足の踏み場もないほどの人ごみで条件は乳幼児や老人、弟のような障碍者でもおなじであった。
「力になれなくてすみませんでした」
なにを、と母親は公家出身らしいうりざねの顔を横に振った。いつもきれいにしているのに鬢には白いものが見えて緊急時だということを思い出された。
「こういうときこそ国のために働かなくてはいけません」
自宅に戻ってから15分が経過している。
着替えをとりに来ただけの帰宅だったのに思いのほか長居してしまった。
もう一度弟のベッドを覗くと水呑みを口に含ませた。むせることなく飲ませることができるのは兄の自分と母親の特技でもある。
「あの怪物はもうすっかり跡形もなく?」
はい、と矢口は弟の口元から零れ落ちる水をガーゼで丁寧に拭いながら答えた。怪物の撤去はテレビでも大々的に報道されていたのだが、あの日の恐怖が甦るのか直接は見るつもりはないらしい。
この手のことにぬかりのないかの国は怪物が微動だにしなくなってから数時間後には撤収作業にはいり、いまは118.5メートルがすっぽりと収まるNASAの格納庫に特別プロジェクトチームとともに蜜月を送っているという。大統領の側近であるカヨコでさえ、ここまでの情報が限界であとは自分が数年後ホワイトハウスで暮らすようになってからのお楽しみにとって置く、とだけ伝えて電話は切られた。
日本の中心の壊滅的な破壊は膨大な損失であったがむしろ既存のしがらみがなくなった分、思いきりのよい再開発が見込まれてまるで戦後の焼け野原から一転、復興を遂げたあの時代の再来のような頼もしい意見も聞こえる。実際建設と鉄鋼の株は天井知らずでそれに引っ張られる形で他の業種も毎日高値を更新している。30年近く前の好景気以来の水準であのときは根拠のないバブルであったが今回は正当な理由のある商いであり、失業率は一気に下がった。
廃墟を前に奮起するのはこの国の人々の特性なのだろうか。
うなだれていたのは一瞬で瓦礫はあっという間に一層され、仮の駅舎からは次の日からダイヤ通りの運行を始めた電車が通勤の乗客を運んだ。
予言通りスクラップアンドビルドが始ったのである。
中枢に赤坂をはじめ若きリーダーを据えた内閣は長く閉塞感のあったこの国の希望であり多くの人の願いでもあった
巨災対で辣腕を振るった矢口の名前も当然なかったわけではない。なのに彼は歴史上最年少での入閣を辞退した。
辞職さえほのめかした矢口の意向を押しとどめたのは旧来の親交のあった泉であり、海の向こうのカヨコであった。
「今日はどちらへ」
「九州です。羽田からの便がようやくとれました。長崎と熊本に行ってきます」
「気をつけて行ってください」
矢口の元にはヤシオリ作戦の第一部隊でで殉職した数十人の自衛隊員の名簿がある。東北と北関東に住所のある元隊員の家族の元には在来線を乗り継いですでに出向いたが、羽田の復旧はまだまだでやっと手にした切符で九州に向かうつもりなのだった。
覚悟の上とはいえ、犠牲を強いられた彼らと残された家族に矢口ができることはただ謝ることしかない。隊員たちの家族は遺影の前で矢口の来訪にただ驚くもの、詰め寄るもの、泣き崩れる者とそれぞれであったが、畳のへりに額をこするようにして頭をさげる矢口の態度は一貫していた。
東北の寒村の火の気のない囲炉裏端で母一人子一人の年老いた母親が言った一言が忘れられなかった。
「あの子は無駄死にではなかったんですよね。この国の役に立って死んだんですよね」
茶の間を見守るようにして掲げられた先祖代々のモノクロの写真に並んだばかりのまだ少年の面影の残る丸刈りが、制服の肩の分不相応にも見える階級章に戸惑っているようにも見えた。
矢口は嗚咽し、額を何度もすり減った畳にこすりつけ老母が促すまで顔を上げることができなかった。写真の確かに見覚えのある若い隊員は立川基地で激励を飛ばす矢口の前列で敬礼を寄越した若者であった。
この旅が終わるまで自分の任務は終わることはない。もっともこの巡礼も早々に副官房長官に任命された泉に言わしめれば偽善だ、そういうところが二世のいやらしさだと嫌味の一つもくれて寄越す行為なのである。電話の向こうの霞が関の喧噪に早々に通話を遠慮すると「…気をつけていけよ」と長年の腐れ縁ともいえる同士は最後にだけ優しい言葉を矢口にかけた。
瓦礫を運ぶトラックの群れは湾岸道路を矢口と反対方向にに進んでいく。それは葬送の列にも似ていて矢口は東京が死骸となって運ばれていくようにも感じていた。
死は誕生と対でもある。
おびただしい数のトラックのエンジン音が矢口の身体を貫く。それを胎動に受け止めながら新たな東京の誕生を矢口は確信していた。