二重生活妄想チラ見せ(本編とどう違うのか!楽しみだ) | ちゃんのブログ

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書かれていることは事実を元にしたフィクションです

 スクランブル交差点を抜けて、道玄坂をあがり円山町のラブホテル街まで石坂はまっすぐ進んでいく。自宅を出るところから今日も尾行を開始していたが、石坂が珠に気が付く様子もなく、一両離れた車内でははひたすらスマートフォンをいじっていた。

ーあの人のところに行くんだー

石坂は家族には休日出勤とでも言ってきたのだろうか、ラフなジャケットにチノパンツという服装であった。ただ通勤のときに使う大きな鞄を肩から下げていて、それが休日出勤の大義名分のように見えた。

 少し前、尾行に慣れてきた珠は石坂に接近しすぎ、思わぬ失敗をした。駅で石坂が珠の行動に気が付き詰め寄られ、タイミングよくドアの閉まった電車に駆け込みすんでのところで逃げたのである。

最初は恐る恐る始めた尾行だったが、秘密を抱えた隣人石坂への興味が募るにつれ、次第に大胆になっていたのかもしれないと珠は反省した。しばらく時期をおいて、珠はまた石坂を尾行したのである。

 その間毎日のように珠はマンションから石坂の自宅を見ていたが、石坂はあの駅の一件で無用に自分を尾けてくる若い女も懲りたにちがいない、とでも思ったのだろう。特に周りを気にしたりする様子もなく時間通りに出勤し、休日には娘と犬を散歩させたり、愛車を洗車したりと普段通りの生活を送っているようなのだった。今日も先週と同じ休日を送るはずの隣家であったが、午後になり石坂が普段着ではない服装で大きな鞄を持って、妻が運転する車で駅方向に向かったのを珠が見逃すはずはなく、慌ててコートを羽織り、口紅も塗らずにバスに乗ったのであった。電車は多分急行を使うはずで道が混んでさえいなければ珠も石坂に追いつくはずであった。

 案の定、石坂は会社の最寄り駅ではなく、渋谷で地下鉄を降り早足で人混みの中を歩いていく。

休日の繁華街は人通りも多く、いつ見失ってしまうのかと不安になったが、もう何か月も同じ人の背中を追ってきた珠が石坂を見まごうことはなく、安定の距離感を保って尾行することは可能であった。

やがて青やピンクのネオンに「ご休憩3000円、ご宿泊5000円」と似たり寄ったりの値段が目立つホテル街に入り、行きかう人もカップルばかりになり、石坂と忍はどのあたりで待ち合わせているのだろうかと、珠がもう一度石坂を視界の先に確認しようと思ったときである。背後から男の強い手でぐっと右手を掴まれたのは。

「白石珠さんだね」

石坂は息があがり、額に汗が浮かんでいた。前は石坂の追跡も偶然振り切ることができたが今日はもう無理だ。石坂はもう逃がさないぞ、といった風に珠の右手を更に力を込めて握った。まんまと罠に嵌められたのだった。珠はなんと言いわけをしようと考えたがなんの答えも浮かばず、ただ目の前で怒りを込めた目で自分を見据える石坂に射抜かれるようにして佇むばかりである。

「尾けているのなんかとっくに気が付いていたよ。ここに入ろう」石坂が鼻の先にあるラブホテルを示した。「話がある。君だってひとに聞かれたら困るだろう」石坂は有無を言わさず、珠の腕を掴んだまま、空室と表示された部屋のタッチパネルを押した。ディスペンサーにゴロンとプラスチックのホルダーのついた鍵が転がった。


 部屋は安いラブホテルにありがちの薄暗い照明で、真ん中に毒々しいピンクのサテンのダブルベッドがあり、流行りの曲のBGMが低く流れていた。

石坂は部屋に入ってようやく珠の腕を離すと、ベッドにどかりと腰を下ろし、ジャケットを脱いだ。珠は部屋の奥のほうに連れてこられトートバッグの取っ手をぎゅっと握ったまま身動きできずにいた。

「突っ立ってないでその辺にすわれば」石坂は枕元にある料金表を手に取り、デリバリーのドリンクとフードメニューに目を通すとフロントに電話をかけた。

 自分には500ミリの缶ビールと盛り合わせのスナックを註文し受話器をふさぐと珠に「何にする?」と聞いてきた。珠はまだ石坂の前で一言も発しておらず、唇が渇き、声を出そうにも震えてうまく話せなかった。「何にするの?」石坂はもう一度珠に訊ねようやく珠は「なんでもいいです」と小さな声で答えることことしかできなかった。石坂は珠をもう一度じっくり眺めると「未成年か、ウーロン茶でいいかな」と同意を求めるように聞いて珠が頷くと電話を切った。未成年じゃありません、と否定しようにもこの際そんなことはどうでもいいことであった。

「心配するな。何もしないよ。君も知っての通り俺は女性には不自由していないんでね。それに、」と言いかけて石坂は珠の全身をちらっと見た。言いたいことはわかった。確かに珠はやせぎすで胸も小さく、少年っぽい体型でお世辞にも女性らしい体つきとはいえなかった。ましてやあんな女っぽいしのぶや美人の石坂の妻とは比較対象にはならない貧弱な若さだけが取り柄の身体と顔であった。

 部屋はあまり空調がきいておらず、春先なのに暑かった。石坂はジャケットを脱いでもまだ暑いと見えてワイシャツの袖をめくった。

気がついているそぶりも見せず珠の集中が逸れた一瞬で背後に回り犯人を捕まえたのだから、それは石坂もずいぶんと走り緊張し喉も乾いていたのだろう。運ばれたビールを喉を鳴らして飲み、やっと一息ついたといった感じで珠に質問を向けてきた。

「悪いが君のことはある程度は調べさせてもらったよ。君の住むマンションの管理人にね。君が彼氏と君の住むマンションで同棲してるとか、学生であるとかね。君は一体何の目的で俺を尾けるの?誰かに頼まれた?興信所のバイトでもしているの?」

違うんです、違います、珠が説明したら石坂は果たして納得してくれるのであろうか。哲学的尾行をするためたまたま選んだ相手が幸福を絵にかいたような隣家の石坂で、まさか秘密を抱えていることなど全く思いも寄らぬ<ことであったと。美しい妻に高級外車で駅まで送ってもらったにもかかわらず、ドアを閉めた途端冷たい表情になったあなたを追って行ったら、浮気相手と密会していたのだと。痴話喧嘩にも遭遇してトイレで泣くしのぶのそばまでついていき、さすがに不審がられて慌てて逃げたのだと。「まいったな、あのときから尾けていたの」克明にとつとつと話す珠に一時は恐怖さえ抱いていた石坂は途中からそんな自分が滑稽にさえ思えてきたのかもしれない。尾行の動機が哲学的尾行というのも石坂の職業柄か知的好奇心をくすぐったようだ。徐々に表情が和らぎ珠が見てきた数々の出来事を面白がるような反応をした。そしてしきりに珠にウーロン茶を勧め、お腹は空いていないのか時間は大丈夫なのかと聞いてきた。

 やがて2時間の休憩時間が終わり、石坂は追加のビールを含め都合3本ほど飲み、赤いカーペットに無造作に置かれた古びたトートバッグを珠に渡した。「今度はもっとうまいメシにでも行こう。もっとも彼氏が許してくれたらの話だけど。俺のアドレス教えるよ。君は平日は学校は何時まで?あわせるよ」

珠はここに連れてこられた最初の怯えさえもうすっかり忘れ、いつしか石坂と次に会うのを楽しみにする感覚をどう表現していいのかよくわからないまま、会社に顔を出すという石坂と渋谷の改札で手まで振って別れたのであった。