地震が起きた時。
本当なら自宅にいたはずが、その日に限って保育園に特別出勤していた。
お泊まり保育で人手不足の為だ。
子どもたちがお昼寝をしていて目覚める10分前頃だった。
私も来年度に向けて打ち合わせを終えて保育室に向かっている最中。
大きな揺れでよろけた。
警報器がなり、頭はパニックだったけどとりあえず、尋常じゃない速さで保育室に戻り、窓を開け子ども達を起こしながらも頭を布団で覆わせた。
揺れてる間、夢をみているような気分になって現実を受けとめられないような状態になりながらも、意外に自分の行動は冷静だった。
押し入れから、防災頭巾を取出し、子ども達にかぶせ、上履きを履かせた。
私は1人の障害児を絶対に担当する役目があったため、その子をおんぶ紐で固定し、背負った。
人数を確認し、1階へ避難。
しばらくして、退院したばかりで、まだ杖をついて歩行する母が田町の病院へ向かっていることを思い出した。
偶然、お散歩にいった上着をきていたため、ポケットには携帯がそのまま入っていた。
急いで連絡するも、かからず。
相次ぐ震源地からの余震が何度もあり、その度、園内はパニックになった。
園にはテレビが無いため、ラジオで確認。
目の前にいる子ども達を守らなければならない。と、強気になれる瞬間と、連絡のとれない母への心配な思いが交互にきて、心臓はバクバクしたままだった。
しばらくすると、妊娠6ヶ月の姉からのメール。
とにかく会いに来てほしい、助けて。という文で私の頭の中は心配一色になった。
園内では帰宅困難で迎えが無理という連絡が相次ぐ。
私は事務員1人で人手不足のため、電話対応を任された。
迎えにいけないという親。私たち帰れないねという保育者。
意外にあっさり、私は帰らせて頂きますという職員。
腹立たしい感情とか、いろんな感情が私の中で沸いた。
その日、最終で迎えに来た親は、築地から10時間かけて歩いてきたそうだ。
夜中2時半を越えていたけど、それだけかけてでも諦めずに迎えに来た親を本当にすごいと思った。
私は、2時間半歩いて帰り、その後2番目の姉の仕事場に車で迎えに行き、そのまま妊娠中の姉のところへ行き、しばらくの荷物を用意させて、家に帰った。
母は後に連絡がとれ、近くにいたホテルの職員に保護され、さらに四ッ谷から父が歩いて向かってくれることを知り、それについてやっと少し安心することができた。
これらのことを終えるまで、実は地震が起きた意外の事実をまだ知らなかった。
自宅につき、ようやくテレビで今回の地震がどれだけの事態かを知らされた。
津波で壊滅状態にある陸前高田市には大学時代の友人がいて、まだ連絡がとれない。
でも、まだ余震が続いたり、交通機関の影響で出勤できない職員がいるため、私が今しなければならないことは、子どもたちの為に出勤することだと思った。
とりあえず姉が仕事を休めることになり母と居てくれるので安心だし。
友人に連絡がつかないことが一番の心配だけど、、。
今週はいろんな気持ちを持ちながらも、子ども達にはできるだけ通常に近いものを提供してあげたいと思った。
もちろん、節電は協力し、暖房器具は使用せず、照明も夜のみ、最小限は必須。
放射能うんぬんの話題で屋外禁止。
そんな中でできる最善を考えながら保育を努めた。
でも、いろんな考えの職員は居て。
放射能の話を敏感に反応して、午睡中もうるさくて噂話を広めて、1人で余計に怖くなって子どもを起こして心配がらせる職員や、
仕事中にもかかわらず、週末は新潟の方に旅行がてら友人の顔をみてくる。僕に何かあっても心配なく!と何度も僕は善者だと言わんばかりの発言をする職員。
正直、バカとしか思えない。社会人としての自覚がない。
私は、今回の地震で原発のことを恥ずかしながら初めて知ったし、
何も考えずに、どれだけ甘えて電気を好きに使い不自由のない生活をしてきたんだろう。
と、恥ずかしい思いだ。
また被災地にはもっと発狂してしまうような事実が常に起きているんだと思う。
だから、今できることは本当にちっぽけだけど、自分の立場でできる最善をしたいし、文句とかは言わないって思う。
節電と子ども達のストレスを少しでも発散してあげられるような保育を心がけたい。
また、歩いて帰るのはやだーと嘆く職員もいるけど、
私は、そういう気持ちはリセットして辛いことでも受け入れて毎日を生きていきたいと思う。
今、私以上に辛い思いや、状態にいる人は数えきれないほどいるのは承知だけども、毎日を生きてほしいと願う。
本当なら自宅にいたはずが、その日に限って保育園に特別出勤していた。
お泊まり保育で人手不足の為だ。
子どもたちがお昼寝をしていて目覚める10分前頃だった。
私も来年度に向けて打ち合わせを終えて保育室に向かっている最中。
大きな揺れでよろけた。
警報器がなり、頭はパニックだったけどとりあえず、尋常じゃない速さで保育室に戻り、窓を開け子ども達を起こしながらも頭を布団で覆わせた。
揺れてる間、夢をみているような気分になって現実を受けとめられないような状態になりながらも、意外に自分の行動は冷静だった。
押し入れから、防災頭巾を取出し、子ども達にかぶせ、上履きを履かせた。
私は1人の障害児を絶対に担当する役目があったため、その子をおんぶ紐で固定し、背負った。
人数を確認し、1階へ避難。
しばらくして、退院したばかりで、まだ杖をついて歩行する母が田町の病院へ向かっていることを思い出した。
偶然、お散歩にいった上着をきていたため、ポケットには携帯がそのまま入っていた。
急いで連絡するも、かからず。
相次ぐ震源地からの余震が何度もあり、その度、園内はパニックになった。
園にはテレビが無いため、ラジオで確認。
目の前にいる子ども達を守らなければならない。と、強気になれる瞬間と、連絡のとれない母への心配な思いが交互にきて、心臓はバクバクしたままだった。
しばらくすると、妊娠6ヶ月の姉からのメール。
とにかく会いに来てほしい、助けて。という文で私の頭の中は心配一色になった。
園内では帰宅困難で迎えが無理という連絡が相次ぐ。
私は事務員1人で人手不足のため、電話対応を任された。
迎えにいけないという親。私たち帰れないねという保育者。
意外にあっさり、私は帰らせて頂きますという職員。
腹立たしい感情とか、いろんな感情が私の中で沸いた。
その日、最終で迎えに来た親は、築地から10時間かけて歩いてきたそうだ。
夜中2時半を越えていたけど、それだけかけてでも諦めずに迎えに来た親を本当にすごいと思った。
私は、2時間半歩いて帰り、その後2番目の姉の仕事場に車で迎えに行き、そのまま妊娠中の姉のところへ行き、しばらくの荷物を用意させて、家に帰った。
母は後に連絡がとれ、近くにいたホテルの職員に保護され、さらに四ッ谷から父が歩いて向かってくれることを知り、それについてやっと少し安心することができた。
これらのことを終えるまで、実は地震が起きた意外の事実をまだ知らなかった。
自宅につき、ようやくテレビで今回の地震がどれだけの事態かを知らされた。
津波で壊滅状態にある陸前高田市には大学時代の友人がいて、まだ連絡がとれない。
でも、まだ余震が続いたり、交通機関の影響で出勤できない職員がいるため、私が今しなければならないことは、子どもたちの為に出勤することだと思った。
とりあえず姉が仕事を休めることになり母と居てくれるので安心だし。
友人に連絡がつかないことが一番の心配だけど、、。
今週はいろんな気持ちを持ちながらも、子ども達にはできるだけ通常に近いものを提供してあげたいと思った。
もちろん、節電は協力し、暖房器具は使用せず、照明も夜のみ、最小限は必須。
放射能うんぬんの話題で屋外禁止。
そんな中でできる最善を考えながら保育を努めた。
でも、いろんな考えの職員は居て。
放射能の話を敏感に反応して、午睡中もうるさくて噂話を広めて、1人で余計に怖くなって子どもを起こして心配がらせる職員や、
仕事中にもかかわらず、週末は新潟の方に旅行がてら友人の顔をみてくる。僕に何かあっても心配なく!と何度も僕は善者だと言わんばかりの発言をする職員。
正直、バカとしか思えない。社会人としての自覚がない。
私は、今回の地震で原発のことを恥ずかしながら初めて知ったし、
何も考えずに、どれだけ甘えて電気を好きに使い不自由のない生活をしてきたんだろう。
と、恥ずかしい思いだ。
また被災地にはもっと発狂してしまうような事実が常に起きているんだと思う。
だから、今できることは本当にちっぽけだけど、自分の立場でできる最善をしたいし、文句とかは言わないって思う。
節電と子ども達のストレスを少しでも発散してあげられるような保育を心がけたい。
また、歩いて帰るのはやだーと嘆く職員もいるけど、
私は、そういう気持ちはリセットして辛いことでも受け入れて毎日を生きていきたいと思う。
今、私以上に辛い思いや、状態にいる人は数えきれないほどいるのは承知だけども、毎日を生きてほしいと願う。