価値があるとか、ないとか
それに強いこだわりがあるのは
価値=存在
って式を
悲しい意味で捉えている自分がいるから



ロックやポップス育ちのわたし

演歌も頑張ったら歌える(笑)




存在することが価値なのに
価値があるから存在していい、って
捉えている

この意味付けが、悲しいのに
なかなか更新も捨てることもできない
(だから価値があるないにこだわる)
のは

自分の声が届かない
そんな過去の経験(傷)があるから



そんなわたしが顔を出す度に
「そうねぇ、悲しかったね」
「それはこういう理由だったのよ」
「今をよく見て、もう世界は違うよ」
そう繰り返し言い続けている



これを人によっては
過去と向き合う、感情を味わう
と、言うのかも知れないが

過去と対峙する時に
当事者になってはいけない
感情に呑まれて
悲しくなってしまうだけ



ウィンナーコーヒーって

ウィンナーソーセージ添えられてると思ってた(爆)




過去と対峙する時は
過去の自分と一体化するのではなく
過去の自分を相談者として扱う

相談者の相談(過去の状況)を
第三者目線で整理する
相談者の感情(過去に感じた感情)は
そのままオウム返しする
「それは悲しかったね」
「それは怒って当然だよね」
「当時のわたしに理解しろって
そんなの無理で当然だよね」etc…


過去の状況が整理されると
過去を思い出しても感情に障らなくなる
なぜなら
どうしてそうなったか理解できるから
(理解に共感や同意は必要ない
水に塩入れたらショッパくなります、以上。)


その上で
過去誰も認めてくれなかった自分の感情を
今の自分が
「そうだよね、当然そう感じるよね」
「そう感じて、いいんだよ」
と、繰り返し認めることで


だんだんと
氷が溶けるように
過去の傷に縛られなくなってくる


偏った価値観を手放して
楽な(ニュートラルな)思考で
生きられるようになってくる
生きやすくなってくる


そんな
わたしの経験からの、おはなし