10月27日(金)14:44
父 吉三郎が永眠しました。
14:02 仕事中に父危篤の連絡が入る
14:57 母から間に合わなかったと連絡あり
あっという間の出来事。
2015年頃から軽度認知の症状が見られ
2016年には仕事を引退。
そこからは母が自宅で介護。
アルコール性認知症と診断されたけど、
どれだけ医者に止められても酒だけは辞められず。
結局今年の2月下旬に透析治療のため入院。
きっともう出てこられないと覚悟して、
家族全員で病院に付き添い。
それまではいつもの検査入院でしょ?
と思っていた父も何かを感じた様で…。
みんな来てくれたの?
すぐ退院できるんでしょ?
不安そうに語った父の姿が忘れられない。
病室に入っていく父の姿を見送ったときは涙がポロリ。
それからコロナが流行り出したとのことで面会は予約制に。
2ヶ月後に面会した時には入院前の父の面影など
全くなくガリガリに。
母から様子は聞いていたものの
思った以上に痩せていてショックでした。
入院したら一気に認知が進んで私たち家族の顔も
忘れてしまうんだろうなって思ってたけど。
きちんと会話も出来たし私のこともちゃんと覚えててくれた。
話しの途中で訳分からなくなって少し混乱してたけど、
ふとした瞬間に我にかえる時があって。
「あぁ…大変なことになったなぁ…」
と天井を見ながら呟いた父の言葉が
意識のある父の最後の言葉でした。
その後まともに面会できないままコロナに感染してしまった父。
結局意識が戻ることなく誰にも看取られず
一人逝ってしまいました。
覚悟はしてたもののまさか意識が戻らないとは思わず…。
もう少し早く病院が連絡してくれればとか、
院内感染は防げなかったのかとか、
色々思うことはあるけれど。
意識が無くなってからの父は本当に苦しそうで、
歯が削れるほど食いしばっていました。
そんな姿を見て本当にこれが父の為なのかと
疑問に思うこともあったので。
遺体安置所で対面したとき一番最初に出た言葉は
「お父さん、もう痛い思いしなくて済むね。よかったね。」
でした。
父は職人で母は本当に苦労したと思う。
俺のものは俺のもの。
お前のものも俺のもの。
そういう人だったからそれはもうやりたい放題。
でも、職人としての腕は天才的で。
ドラマ・映画で使用する名札、看板、提灯、ネームタグ、横断幕などなど。
全て手書きで、下書きもせずにパパッと書ける人でした。
どんな書体でも完璧で、特に明朝体には長けていて
「明朝のサブ」と呼ばれたほど。
電鋸で切り文字もしてました。
小学生の頃、図画工作で電鋸を使ったことのある方ならわかると思いますが。
切り口がブレてしまって、まっすぐ切るのも難しい。
どうやったらあんなに滑らかに文字を切り抜けるのか?
まさに神業でした。
私は父以上の職人を見たことがありません。
父の仕事を見るのが大好きで、父の仕事が自慢でした。
ありがとう。
お疲れ様でした。
ゆっくり休んでください。