みなさん、新年明けましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い申し上げます^^


 さて、新年初ブログということで、何を書こうか考えたのですが、興味深い論文(エッセイ)を発見したのでそれについて。


 太郎丸博(2010)「投稿論文の査読をめぐる不満とコンセンサスの不在」『ソシオロジ』54(3)


 私たち大学院生の主な仕事は、研究をして、それを論文にまとめることです。特に、博士論文を執筆する場合には査読付きの学会誌に掲載されることを必須要件としている大学も多いので、まずはそこが研究者としての第一関門になりまます。ところが、この査読論文というのが(文系の場合)特に難しい代物で、掲載までに書き直しを何度も行い、1年以上かけてやっと媒体に自分の論文が載るというのも珍しくありません。


 今回読んだ太郎丸先生の文章には、そんな投稿論文をめぐる査読の問題が書かれていました。ひどい査読者がいること、不安定な立場の院生や非常勤講師の書いた論文を、地位の安定した研究者が査読するシステムになっていること、経済学や心理学では査読をめぐるコンセンサスを確立しようとする動きがあることなど。とても参考になる話ばかりでした。


 中でも私が関心を持ったのは以下の部分です。

 

 社会学者はしばしば「おもしろい」とか「おもしろくない」といって他人の研究を評価するが、おそらく、この「おも      しろい」という言葉にコンセンサスの不在を隠ぺいする機能があるのであろう。私に言わせれば、おもしろいけれど学問的価値のない研究はあるし、おもしろくなくても優れた研究はある。何をおもしろいと感じるかは、読む側の知識や経験・好みに大きく依存するので、人によって何をおもしろいと思うかはかなり異なる。社会学者たちが「おもしろい」とか「おもしろくない」といって他人の研究を評価するとき、一見、同じ基準で評価しているようであるが、実態はかなり違ったものなのではないだろうか。


私自身も、他人の研究に対して「おもしろい」とか「おもしろくない」という評価の仕方をしますが、それは一種の「逃げ」ではないかと感じました。太郎丸先生自身も論文の「真のクオリティ」など正確には測定できないと述べているように、普遍的に(誰が読んでも)評価される論文というのは存在しないのでしょうけれど、「おもしろい」「おもしろくない」という評価は「社会学的価値」に対する判断から逃げていることになると思ったのです。しかもその「おもしろさ」の基準が個人個人でバラバラな場合、当該論文について私たちはコンセンサスなしで評価をし、満足していることになります。これは研究者として誉められた態度ではないと思います。


 個人レベルで「おもしろい」「おもしろくない」の判断をする前に、学問(社会学)的価値に沿って判断ができるようにならなければいけないと感じました。そのためには、社会学なる学問を深く知っていくことが大事なんですね。


 1年の始まりに刺激を受ける文章に出会えてよかったです。さて、今年も頑張りましょう。

みなさんこんばんは。


今日、楽しみにしていたアイテムが届きました。


去年の冬くらいから愛用しているものなんですが・・・これで平安時代の雰囲気を味わっています。


そう、お香りです^^


友人が送ってくれたのがきっかけで、ハマりました^^;


京都の松栄堂というお店のものを使っています。


詳細はこちら→ http://www2.shoyeido.co.jp/




Book Mark


Book Mark-燃えてるお香

「堀川」という商品で白檀の香りがするんです。強すぎず弱すぎず、絶妙な香りが漂います^^


写真をみてわかる通り、80本入なので、11本焚いても80日はもちます。お値段もお手頃(=⌒▽⌒=)


そして、お香のよいところは、自分のお気に入りの香りで自分の部屋をコーディネート(?)できること。帰ってきたときにいつもの香りが残っていると「あー今日も無事に帰ってこれた^^」という気分になれるのは私だけでしょうかww



そうそう、自分用に使うのはもちろんですが、外国人にプレゼントしても喜ばれるのがお香ですね。特に欧米系の方々はお香好きが多いような気がします(本当かどうかは分かりませんw)。


さて、これで作業もはかどりそうですグッド!



※この記事は119日(火)の2時ちょうどに投稿したんですが、ナイスタイミングでメンテナンスに入ってしまったようなので、アップが遅れました。

最近読んで面白かった論文。


中村高康(1996)「推薦入学制度の公認とマス選抜の成立」


RQ (Reserch Question)

 公平信仰の対象となりえなかった推薦入学制度が現代日本の教育選抜の場で公然と制度化されたのはなぜか?を解き明かそうとする論文。RQが明快で分かりやすかった。


 大学入学者選抜における推薦入学制度が政策当局によってはじめて公認され、後の普及の決定的契機となった昭和40年代前半の時期に焦点を絞って本文は展開される。


 私が選んだキーワードは以下の通り


公平信仰社会、試験地獄、教育拡大(の圧力)、選抜規範、エリート選抜、マス選抜


 ちなみにここでいう推薦入学制度は、学力のみで入学者を決定する「学力一斉筆記試験」以外の入試形態を指していると考えてよいだろう。


 昭和40年代の第1次ベビーブームの影響で、高校卒業者数が激増。さらなる「試験地獄」化が懸念される。そこで推薦入試が試験地獄緩和策として浮上。


推薦試験賛成派:文部省、高校長協会、ジャーナリズム

推薦試験反対派:有力国立大、大学教員、高校教員、(エリート的)一般の個人と高校生



 筆者は特に、「試験地獄」解消という理念の影響で、ジャーナリズムが敵対勢力にならなかったことの重要性を挙げている。ジャーナリズムが「公平性」や「平等性」を理由に推薦入学制度を批判することも十分可能だったからである。



 ここで解説。

 もともと、ある社会の中には「望ましい」とされる選抜=移動規範が存在するといわれてきた(ターナー1960)。例えば、アメリカは競争社会だから「競争移動(Contest Mobility)」型規範とされ、個人の属性に関係なく競争の結果によって社会的上昇移動を果たすことができる。一方、イギリスでは階級社会を前提に、その再生産のために、社会的エリートの選抜をエリートが行ってきた。そのため、将来のエリート候補は、現在のエリートの庇護のもとで選抜される。その状況から「庇護移動(Sponsored Mobility)」型規範と言われた。

 しかし、筆者である中村氏はターナーの提示した選抜=移動規範がいずれもエリートの選抜を基準にした規範であるとする。日本のように高等学校段階への進学者が50%を超えるような社会では、ターナーの論では説明できない現象があるという。つまり、結論を先取りすれば、従来通り(ターナー的な)エリートの選抜と、必ずしもエリートではない存在の選抜という、選抜の二重化が起こっており、そこから生じる選抜規範も二重化しているというのである。これはなるほどと思った。そしてそれらの選抜形態を「エリート選抜」と「マス選抜」と名付けている。うまい。


 整理すれば、エリート選抜の論理=公平性の主張(客観的なテストをやるべき:公平信仰)、マス選抜の論理=試験地獄緩和の主張、ということができる。



 

 よく「日本型○○」という言い方を耳にする。「日本型タテ社会」とか。で、そういうふうに言われちゃうと「日本型○○」は一つしかないと思いがち。でも、時代とともに社会は変動するからその中での価値観や規範も当然変化する。その変化を選抜規範の中で見事に描いた論文だと思う。


 そして、私自身の研究にもとっても示唆的。「スポーツ特待生制度=スポーツの実績や能力を糧にして進学することが可能な入学形態」とすると、スポーツ特待生制度による選抜や社会移動を説明できる規範や理論を社会学は持ち合わせているんだろうか??という疑問がわく。


 自分で答えを出さなければ・・・。先は長い。