倒幕には、有名無名に関わらず、さまざまな人が関わっていて、それぞれにふさわしい役割を果たしている。









しかし、後醍醐天皇と楠木正成、この二人を抜きにして、鎌倉末期の激動の時代を語ることは出来ないだろう。
どちらが欠けても不完全だったし、彼らは、共通の目的を達するにあたって、互いが持たないものを補いあったように見える。
話は変わるが、正成が亡くなった後、最初に彼を祀ったのも、後醍醐天皇だ。
南木(なぎ)神社と呼ばれ、今は、独立した立派な社殿が建っているが、
その始まりは、後醍醐が、正成の氏神であるタケミクマリ神社の社の奥に、自ら刻んだ正成の像をおさめたことにあるという。
その祠は、元禄時代に現在地に移され、さらなる改修を経て、昭和15年、今日の社殿の姿になった。
南木という不思議な名前は、後村上天皇の命名で、後醍醐天皇が見た霊夢の逸話からとられたという。
太平記に、こんな話がある。
後醍醐天皇は、ある日、夢をみた。
皇居であろうか、庭の橘の緑繁れる木の下に、美しい玉座が設けられ、
そばには100を超える家臣らが、ものものしき様で、ずらり列座している。
しかし、その玉座だけは、まるで誰かを待っているように空っぽだ。
ここに座るのは誰だろう?
天皇が不思議に思っていると、天から二人の童子が現れて、御前にひざまづく。
そして、天皇の今の身の上を、ひとしきり嘆いたあと、あの橘の南の木陰の座に付き、時を待てと言うのだ。
この時、後醍醐天皇は、二度目の倒幕計画が露見して、笠置の山に逃げていた。
計画に関わった公卿や僧侶、家臣らが、次々と処刑される中、
それでも後醍醐は、各地の武将らに、決起を促す檄を飛ばし続ける。
しかし、鎌倉幕府の威猛をおそれて、名のある者は、ひとりとして集まらなかった。
そんな苦しい状況の中で、後醍醐はこの不思議な夢を見るのである。
橘の木の南……そこにいれば、再び天皇家が、世を治める時が来る……!
目を覚ました後醍醐は、夢の内容をそう解釈する。
そうして、さらなる思案を巡らせた結果、橘の木の南とは、木に南と記す「楠」を意味することに気づくのだ。
後醍醐天皇は、ハッと息をのみ、すぐさま臣下を呼んだ。
「この辺りに、楠木という者はおらぬか。探してただちに連れて参れ」
と、そんないきさつで見出だされたのが、橘諸兄卿(たちばなのもろえきょう)の子孫、楠木正成である。
太平記は、そう伝え、南木神社の南木とは、そこ(木に南)からとられた意味らしい。
南木神社 楠木正成を祀る

作り話と言ってしまえばそれまでだが、この話が語っているのは、「巡り合わせの不思議」だろう。
正成と後醍醐がどのように結び付いたのか、実際のところは、今もよくわかっていないそうで、
それは当時の人たちにも、もしかすると、知り得ないことだったのかもしれない。
けれども、事実がわかったところで、「巡り合わせの神秘」、この神秘が神秘でなくなるわけでは、決してないのだ。
南北朝の歴史が、今、我々の知る歴史としてあるのは、言うまでもなく、二人が「出会った」からだった。
しかしなぜ出会ったのか、これは、当人を含めた誰にも、絶対にわかり得ない謎ではないだろうか。
太平記の作者は、だから二人の出会いを、神による巡り合わせとして描いたのだ。
南木神社に立ち、わたしは改めて、巡り合わせの不思議を思わずにはいられなかった。