みなさま、お越しいただきありがとうございます。今日のブログも、お勉強のおまとめです。毎度毎度、駄長文にお付き合いいただき、ホンっっト申し訳ない💦どうか、ご遠慮なくお帰りくださいね。

グラサン言われなくてもお帰りになるから、おまえは潔く、突き抜けてウザいブロガーになれ。

滝汗滝汗滝汗




討幕活動に関わり、捕らえられた者の中には、唐招提寺や般若寺などに属する南都の律僧が、少なからずいたという。

律宗教団のリーダー文観(もんかん)に従った、という可能性もなくはないが、

貴賤上下を自在に往き来し、身分社会のひずみを目の当たりしてきた律僧たちにとって、

後醍醐の目指した社会変革

「新たなる勅裁」

は、やはり未来を賭けてみるに足る、ひとつの価値に見えたのかもしれない。


後醍醐の「新政」の特徴は、ザックリ言って、旧い秩序(身分制度など)を解体しようとしたことにある。

たとえば彼は、公家社会に脈々と続いていた、特定の「家」による官職や領地の占有(世襲)を、真っ向から否定した。

理想の政権イメージは、中国宋代の中央集権国家。

後醍醐は、天皇の権限を掣肘(せいちゅう)する力を駆逐して、あらゆる権力を、天皇に一極集中させようと考えたのだ。


そこに立ち塞がる最大の勢力こそ、鎌倉の武家政権だった。


承久の乱以降、朝廷の動きは、都に置かれた幕府による西国統治機関、六波羅探題によって、いわば監視され、

治天の君とはまさに名ばかり、武家の承認なしには、皇位継承さえ思うに任せぬ時代が続いていた。

天皇家じたい、皇統を二分しての皇位争奪戦に忙しく、

敵対する皇統より、治天の権を少しでも早く長く手にするべく、その最終決定者たる幕府ヘの依存を強めるありさまだった。(なんか分かりにくい文)

討幕は、後醍醐天皇にとって、皇位問題と政権奪還、この2つの問題を一手に解決できる唯一の手段だった。


「朝廷の権威を復権させ、政道を再興する」


即位した後醍醐は、志を同じうする中流、またはそれ以下の貴族らを、異例の人事で次々と抜擢し、側近としてゆく。

既存の政治を一新するに、従来型の官僚では用を為さない、というわけだが、

こうした志向には、そもそも基底となる思想があった。

宋学。中国宋代に起こった新しい儒学、朱子学である。



鎌倉時代、宮廷で大流行した新儒学思想に、この学問好きの天皇は、激しく傾倒した。

彼の採ろうとした一君万民の統治手法が、

中国宋代の皇帝専制的国家をモデルとしたことは、先にも書いた通りだが、(権威は天皇ひとりにあればよいのだから、臣下(武家・公家)の序列は必然的に解体されて、すべて等しく無化される)


後醍醐が、楠木正成に代表される在野の武士や、中流以下の貴族らを、身分ではなく能力主義的に宮廷の中枢に引き入れたのも、「ある点では」宋学的思想の現れだった。

もっとも、この抜擢が奏功するには、受け手の方にも、同じ思想の共有がなければ意味はない。

後醍醐が引き抜いた中下級貴族は、一様に、宋学の教養に優れた学者官僚であったし、正成……或いは彼もまたそうだったのではないかと、わたしは想像する。


正成が、地方武士とは思えぬ並外れた教養の持ち主だった、というのは有名な話だが、

彼の思想にも、宋学的土壌があったからこそ、在野(民)でありながら、天皇を助けて起つ、という、当時としてはあり得ない発想に立つことが出来たのではないだろうか。


当時、もっとも重んじられた宋学の経書「孟子」の中に、「草莽の臣」(そうもうのしん)

なる思想がある。

民間にあって国を思い、その危機に際しては、国家への忠誠心に基づく行動に出る人

というふうな意味だそうだが、

その言葉は、「地下(じげ)の武士」と、いやしめられながら、ひとり天皇に応えて討幕戦を先導した正成の気概と、二重写しのように、わたしには見える。


宋学が論じられて盛んだったのは、寺社や宮廷の周辺である。

幼い頃より寺で学び、学識に優れた正成が、その思想に接していた可能性は、大いにありうることだろう。


後醍醐は、その出会いのはじめから、正成を誰よりも頼みにしたと伝わるが、

複雑に培われた教養が、正成の人間に与えた底光りする何かを、後醍醐は見抜いたにちがいない。

正成もまた、持て余していた才と力の放出点を、後醍醐に見出したのだ。




1331年8月 元弘の変勃発。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を打倒すべく、山城国・笠置寺にて挙兵した。

(ゲホゲホホントのところは、近臣に密告されて、後に引けなくなったからなんだけど)




今日も読んで下さりありがとうございましたうさぎクッキーお疲れ様でしたコーヒーワタシも疲れた爆笑