気晴らし

気晴らし

気晴らしに、日々の考えを文字にしてみます。

Amebaでブログを始めよう!

人はなぜ学ぶのか


学は通ずるが為に非ず。
窮するも苦しまず、
憂うるも意衰えず、
禍福終始を知りて
心惑わざるが為なり。



本当の学問というものは、
立身出世や就職のためではなく、
窮して困しまず、
憂えて心衰えず、
禍福終始を知って、
惑わないためである。


荀子の言葉です。
学びの本質のような気がします。

自分の周りにいる大切な人たちを守るために
我々は学ぶのです。

わたしの好きな言葉の一つです。

 

頼まれごとは試されごと

 

初めてこの言葉と出合ったのは中村文昭さんという方の講演です。

 

衝撃でした。

 

たとえば夏の暑い日。

上司から言われます。

 

ちょっと外の自販機でジュース買ってきて

 

さあ来ました。頼まれごとです。

 

まずここで分かれます。

 

一人は、ハイ!分かりました!と即答する人。

 

もう一人は、えー…と嫌な顔をする人。

 

頼んだ人は無意識のうちに試しているんです。

 

コイツは何と答えるかを…

 

 

 

そしてさらにさらに無意識にこう思います。

 

きっと5分後くらいに帰ってくるだろう。

 

 

そこで10分後に帰ってきたら?

 

こう思いますよね。

 

一体どれだけかかっているんだ!と。

 

 

ではもし、3分で帰ってきたら?

 

こう思うでしょう。

 

早っ!!!

 

ではもし、その人が汗だくで帰ってきたら?

 

 

こんなおつかいひとつで、ここまでやってくれるのか!?!

 

 

思わず言ってしまいそうです。

 

ありがとう!お前も一本飲めよ!

 

 

また頼みたくなりますよね。

 

 

そう、頼み事って、無意識のうちに相手を試しているのです。

 

 

そして、もうひとつ。

 

 

最初は、誰に頼んでもいいことを頼みます。

 

 

しかし、頼まれごとに対して、

 

 

相手の予想を上回ることをくり返していると

 

 

いずれこうなります。

 

 

この人に頼みたい!!!

 

 

最初は、誰でもいい頼みごとをするのですが、

 

 

いずれは、この人じゃなきゃダメだ!!!

 

 

と変わります。

 

 

頼まれごとがきたら、

 

 

お!試されている!と思って

 

 

相手の予想を上回ってみると

 

 

素敵な変化が生じるかもしれません。

ある人が言った。


人生って暇つぶしみたいですよ!


命の寿命は必ずくることから、残された時間を何に使うか、何を楽しもうか、どうやって暇をつぶそうか


確かにそうだと思った。



哲学者のハイデガーに言わせれば、それは気晴らしなのかもしれない。


私たちは命の有限さからは逃れられない。


いずれ迎える 最期 から目を背けるためにいろいろなことをして、暇をつぶすという感覚も


一つの捉え方なのだと感じた。


もちろん、人生は暇つぶしだと言われたら怒る人もいるかもしれない。


自分はこんなに必死に生きているのに…と。


でも一方で


そう言われたらなんだか楽になるよね、心が軽くなるよね


って思う人もいる。


捉え方はその人次第。


だからこそ、その人に合った伝え方ができるようになりたいな〜


そう思った一日でした。


昨日近くに最近オープンしたPAPAN GA PANというお店に行ってきました。


たまたま家にチラシが入っていたので行ってみることに。

このお店は、フレンチトースト専門店とのこと。

写真を見ていてとても美味しそう!と思っていってみると、


なんとフレンチトーストの前に何やら文字が…




そう、冷たいフレンチトースト!だったのです。

食べたことのないものは想像力を発揮するしかない!


でもイメージが湧かない


とりあえず買って食べてみる







見た目からは分かりませんが、解凍して食べるのです。


味は…



とっても美味しかったです!!


新しい!!


そう思いました。


世の中の新しいものは案外


非常識から生まれます。


扇風機は羽があって当たり前


本は手にとって読むもの


フライパンには取っ手がついている



そんな常識の枠を超えてこそ新しいものが生まれる



このフレンチトーストも同じ



温かさという常識を超えて


冷たくてもいいじゃん!


それを魅力に変える


押してもダメなら引いてみろ


まずは発想の転換を!


 

 

「目に見える価値」と「目に見えない価値」

 

 

愛読している「日本講演新聞」の2005年7月4日号にこんな記事が載っていました。

2005年、オルセン監督率いるデンマークのサッカーチームが香港で国際親善試合をしました。

 イランとの試合が始まり、前半終了間際に観客の1人が応援の笛をピーッと吹きました。

 するとイランの選手は、それを審判が吹いた前半終了を告げる笛と勘違いし、目の前に来たボールを手で拾い上げてしまいました。

 その瞬間反則となり、ペナルティーキックが宣告されました。デンマークチームが得点できる大きなチャンスがやってきたのです。

 オルセンさんはボールを蹴ろうとする主将を呼び、耳打ちしました。主将はニッコリ笑って、ボールのもとに戻りました。

 するとその主将はなんと、ゴールとは反対方向にボールを蹴ったのです。結局その後デンマークチームは後半に1点を取られ、負けてしまいました。

 試合後、オルセンさんは責められました。「ほぼ確実に点を取れるチャンスをどうしてみすみす逃してしまったのか!」と。

 オルセンさんはこう答えました。「あの選手の反則は意図的なものではなく、単なる勘違いだった。そんな人の弱みに付け込むようなサッカーを私は選手にやらせたくないし、デンマークの子どもたちに見せたくない。正々堂々と戦うことのほうがもっと大切だ」と。

 その言葉を聞いた記者団はオルセンさんに拍手を送りました。

 

 

 「目に見える価値」と「目に見えない価値」があります。そして、目に見えない価値を決めるのは他の誰でもなく自分です。たとえ思うような結果を残せなくても、それが「価値がない」わけでは決してありません。自分なりに精一杯取り組んでいることには「目には見えない価値」が生まれるのだと思います。