昨年のM-1王者に輝いた「たくろう」に、最近すっかりはまっている。
特に印象的だったのが、優勝を決めた二本目のネタだ。
漫才の描く世界はビバリーヒルズへ。
パーティーに誘われて
「連絡を入れておいてくれ」と頼み、
相方はパーティーの主催者にメールを書く。
「ジョージが行きたがっている。」
するとすかさず反発する。
「それはだいぶ違う。僕は行きたがってはいない。」
英語なら、
Jorge wants to come to the party.
と、簡潔に言えてしまう表現だ。
しかしジョージにとっては大問題なのだ。
自分は強引に誘われれば行くかもしれないが、別に積極的に行きたいわけではない。
その気持ちなのに、「ジョージが行きたがっている」と、ジョージを主語にして断定されると、
相手が自分の登場を
快く思わなかった時の
言い訳がなくなる。
そもそも茶番、アメリカごっこをしよう
という設定なのだから爆笑を誘う。
私はまた別の視点でも興味深かった。
日本人は、自分を主語にして話すことがあまり得意ではない。
「私はこうしたい」よりも、
「そうなりました」
「そう言われました」
「そういう流れで」
というように、どこか他力的な言い方を好む。
それは、相手への思いやりであり、場の空気を守る優しさでもある。
同時に、自分を守るための自己防衛であり、責任を曖昧にする知恵でもある。
けれど、その曖昧さが、時に人間関係を複雑にし、
「本当はどうしたいのか」
「誰が決めたのか」
が分からなくなって、生きづらさにつながることもある。
英語はまったく逆の言語だ。
I think.
I want.
I decided.
文の最初に、必ず「私」が立つ。
だれが考え、だれが望み、だれが決めたのかが、はっきりする。
英語を使うたびに、私たちは自分に問いかけることになる。
「私はどう思う?」
「私はどうしたい?」
「私はどう決める?」
それは語学の練習であると同時に、
自分の人生のハンドルを、自分の手で握り直す練習でもある。
英語はまた、結論から話す言語だ。
思考は整理され、言葉はまっすぐになる。
感情よりも、行動が文の中心になる。
選んだこと。
挑戦したこと。
失敗したこと。
学んだこと。
人生が、「起きた出来事」ではなく、「自分がした選択の連なり」として見えてくる。
英語を話していると、日本語の中にいるときとは少し違う自分になる。
少し率直で、少し大胆で、少しだけ前に出る自分。
だから私は、英語学習が好きだ。
単語を覚えることでも、試験の点数を上げることでもなく、
「人生を、もう一つの視点から眺められるようになること」
それこそが、英語を学ぶいちばんの魅力なのだと思っている。
言語が一つ増えるということは、
世界が広がるだけでなく、
自分自身の輪郭が、少しはっきりしてくるということなのかもしれない。
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