僕は生まれた。


真っ白な大地の上に、足跡を残すために。


どこへ向かうかわからない道を、たどたどしく歩き始めた。





人には生まれた意味があると言う。


ただの真っ白な存在だった僕には、その意味が解らなかった。

いや、解らないから人は前に向かい、それを求めて歩いていくんだろう。

時には壁が聳え立ち、急な坂道が待ち受け、足元にあった石に躓きながら

この道を歩いていく。

そうした過程で、魂の形が作られていく。




道の途中に、小さな池があった。


足を止めて、その水面に自分を映した。


僕の目は、真っ直ぐに僕を見つめていた。


まだ何も知らない、まっさらな目だった。


これからこの目が何を捉え、どう輝いていくんだろうか。

または、何かに絶望してくすんでいってしまうんだろうか。


僕にもわからなかった。






そこへ、一匹の兎がやってきた。


何かから逃れてきたのか、たびたび後ろを確認するかのように振り返りながら、

たどたどしくぴょこぴょこと跳びながらこっちの方へやってきた。



僕に気付いていない様子だった。



池のほとりまでたどり着くと、前足をぺろぺろと舐めはじめた。





よく見ると、怪我を負っていた。


白い毛並から痛々しく見えるその傷は、とても深く、このままでは死んでしまうのではないかと思った。




僕はその兎にゆっくりと近づいた。






僕に気が付いた兎は、びくっと体を跳ねさせて、プルプルと震えはじめた。


僕に怯えている様子だった。



よほど酷い事をされたんだろうか。


その兎が可哀想で、大丈夫だよ、と、そっと手を伸ばした。



すると、兎の震えはぴたりと止まり、僕の手にほおずりを始めた。


僕の想いが伝わったんだろうか、抱き上げても逃げ出すことはなかった。




傷に応急処置を施し、僕はその兎を連れ帰った。








家に戻り、傷を手当てし綺麗にしてやると、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね回った。


すっかり僕に気を許してくれたのか、もう僕を恐れることなく、まるで猫のようにゴロゴロと懐いてきた。

どこへ行こうにも僕の後を付いてきて、離れようとしなかった。



すごく、可愛いかった。




傷を治してあげようと連れ帰っただけのつもりが、僕自身の心も、この兎によって彩られていくのが分かった。


落としたインクがじわりと広がるように、真っ白だった僕の心がだんだんと色を持ち始めた。


冷たかった僕の心に、温もりが与えられた。








僕はこの兎のために生きようと思った。





可愛くて可愛くて、毎日その兎を抱いて眠った。













そしてある日。


兎の傷も随分と良くなったし、ちょっと遠くまで出かけてみようかと、

僕は兎を抱いて外に出た。





だが、すぐに僕はそれを後悔することになる。


・・・いや、どちらにしろその時はやってきたんだろう。






兎は、久々に見る森に、体を反応させた。


その衝撃で、もう少しで僕の腕から落ちてしまうところだった。







・・・森にはきっとこの兎の仲間も居るのだろう。




傷が完治したら、その仲間の元で一緒に暮らせたら、この兎にとっても幸せだろうな、と思うと、


胸がチクっと痛んだ。





僕にはこの兎が全てでも、この兎には仲間がいっぱい居るんだろう…



それなのに、僕の独占欲だけで、この兎の幸せを奪ってはいけない。





初めて感じる喪失感に、脱力した。






歩みを止めた僕を不思議に思ったのか、兎はどうしたの、と言うように僕の顔を見上げてきた。



何でもないように微笑み返し、






ぎゅっと、抱きしめた。








空を見上げると、今日も鮮やかに広がる青。



この世界には雨も曇りも、雪も嵐もない。

いつも穏やかに晴れていて、悠久の時を思わせる。


そして、それは同時に、「無」を感じさせるものだった。




胸に抱いた兎からは、体温を感じる。


それは、その兎が生きていて、僕も生きているという証だ。






・・・・・・・なのに。





こんなにも、生命というものを感じているのに。








僕は、気が付いてしまったんだ。








その瞬間、僕の心を恐怖が襲った。






何故なら・・・・・・





僕の体は、





陽が当たっても影が出来なかったからだ。







僕は確かにここに居るのに、まるで実体がないかのような感覚に、身を竦めた。





このままこの兎を離してしまったら、僕はここに存在していられなくなるのではないか?






まっさらだった僕の存在が、いつの間にか矛盾だらけになっていた。




僕の魂の形は、醜く歪みだした。





愛が生まれた瞬間、憎悪も生まれてしまう。



この世界の摂理は、全て相反するもので成り立っていた。



愛と憎しみ、静と動、温かさと冷たさ、


そして、光と影。




僕には、影が無いと言うのに…。