五山の送り火
京都の音といえば梵鐘。ところで、京都市内の梵鐘が一斉に鳴る日を知ってますか? そう、大晦日ですね。テレビの年越し番組で、よく知恩院の大梵鐘が撞かれている場面が映し出されるけれど、確かに大晦日では、京都といわず日本全国で梵鐘が鳴ってる。でも、京都でもう一日、たくさんの梵鐘が鳴る日があるって聞いて、びっくり。それを聴きたいと思って京都に行きました。 8月16日だったんです。そう、この日は五山の送り火。祖先の魂がお盆の時にこの世に還ってきて、私たちと束の間の時を過ごし、またあの世に戻って行く。それを見送るのが送り火で、その時にお寺の梵鐘が撞かれるとのこと。そうやって説明されると、なるほどと思うけれど。 五山の送り火って、いまでは観光行事みたいになっていて、周囲の五山に次々に点火されていくのをみんな楽しんでるけど、きっと誰も「聴いていない」。つまり「見る」ことに心を奪われてるんですね。なので、今回は「送り火の音」を聴いてみようと思ったんです。右の大文字に近い銀閣寺方面に行きました。 コロナだから、今年の送り火は文字の先端部分だけに点火するという、極めて異例のやり方になりました。だから燃え盛る音がごうごうと聞こえてきそうな送り火ではないのです。でも、とにかくやるからということで来ました。イレギュラーな状態だから、梵鐘もほんとに鳴るのかなと、ちょっぴり心配してました。 7時頃に現地について、まずは腹ごしらえということで京大農学部前の「まつお」の皿うどんを食べます。ここは何十年も前から皿うどんと長崎ちゃんぽんだけを出しているんです。久しぶりに行くと、すごくこざっぱりとしていて、つまり以前はなんとなくごちゃごちゃしていたので、尋ねたら、もう代がわりしましたということでした。味は・・・ちょっと昔の方が良かったかな。でも満足して店を出たら7時40分。点火は8時です。確かに山の上からチラチラと懐中電灯の光が見えます。ああ、本当にやるのね。 点火が始まりました。燃え上がる炎と煙も見えます。これを見ながら先祖は天に戻っていくのですね。 でも、まだ梵鐘の音は聞こえてきません。耳を澄まします。するとどうでしょう。向こうのほうからバラバラバラバラと大きな音を立ててヘリコプターが飛んでくるではないですか。この異例の送り火を空中から撮影しようというのです。大文字の廻りを何度も何度も旋回します。ずっと烈しい音が続いています。ヘリコプターは行ったり来たり、きっと他の送り火の山の方にも行くのでしょう。無性に腹が立ってきました。なんか、先祖が天に戻るのを邪魔しているような気がするなぁ。その騒音の中から、微かに梵鐘の音が聞こえてくるではないですか。あ、あれは法然院かしら。 私はスタスタと哲学の道の方に向かいました。確かに法然院の方からです。桜並木はぼんやりと街灯に照らされて静かに立っています。その向こうに法然院の小さな森がこんもりと佇んでいます。近づいてゆくにつれ、憎きヘリコプターは徐々に遠ざかり、梵鐘の音が明瞭に聞こえてくるようになりました。 哲学の道から逸れて、山門に通じる急な坂があります。かなり暗い道だけど、音に導かれて登って行きくと、梵鐘が重々しく響いています。ようやく山門に着いたけれど、門は閉ざされています。でも、鐘楼はすぐそこにあり、撞いている人の息遣いも聞こえてきそうです。私は山門の石段に座りました。梵鐘が打たれます。音は私のからだの中に染み込んできました。細胞の一つ一つが震えているようです。一つの音の中に、こんなにたくさんのいろいろな音が混ざっているのかと思うほど複雑で、しかし穏やかで温かい音。至福のときでした。 息をこらして聴き続けました。10分も経たないうちに2連打が聞こえ、送る梵鐘は長々とした余韻を響かせながら終わりました。私の中では、その後もずっと鳴り響いていたような気がします。ひょっとしたら、おばあちゃんがそばにいたのかもしれないなと思いながら。送り火の音は、ほんとにすごいです。2020/08/16