人は、色々なことがあると、そのことで頭がいっぱいになる。
想定することが起きるのなら、何でもないが、
動揺してしまうのは、想定外の出来事。
「思ってもみなかった出来事」や(考えもしなかった)
にくくられることだろう。
どうして、そんなことが起きるのか考えられない。
今までの現実が全否定されるような思いに駆られる。
今までどおり、とか、現状維持などという言葉が意味を失い、
「再出発」「再稼働」「再構築」という言葉が頭によぎる。
まさしく、「再~」は、初心に帰れという意味らしい。
何もなかった初めての時、未来が不安でたまらないまさしく事始め。
54にして、神仏先祖は、そう言ってるようだ。
「一から、、、、、」というか、今までのお世話になった人への恩義があるので、
「マイナスからの」と書いて、「一からと」まさしく一緒。
そういう意味を含めた立場で始めなくてはいけないらしい。
それは、ある意味、酷な気持ちにもなるが、必要な現実。
必然的結果。
天からの命令だ。
だから、素直に従うしかない。
なぜなら、行くすえを一番案じてくれている
先祖と神仏という親が言ってくれるから、
泣きながらでも、苦しみながらでも、笑いながら行くしかない。
親は、今の現状を一番わかってるから。
私以上に心を痛めていると信じるから。
しっかりしゃがんで、飛び上がってみようと思う。
3ヶ月前から体がむくみつい最近に、原因不明の高熱。それも39度を下がらない熱が11月終わりから
始まり、我慢できないために病院へ。インフルエン陽性。
仕方ないので家にいる羽目に。ひたすら事務整理。
それも飽きた土曜日の朝、「悪寒」がして目覚めた。
インフルエンザは終わってるはずなのに何故?
下がらない39度を。。。何故?
どうにも動けない。それでも空いてる祝日の総合病院へ、
這うように行って見てもらうと、腎臓が悪くなってるとの結論。
「明日朝、主治医に電話して指示を仰ぐよう」まだ39度が下がらず4日目。
解熱剤の点滴をうたれ、よくあさいちばんにでんわ。
事情を説明した後の言葉が失意のどん底へ。
「じゅんばんがいっぱいではいれません。如何してもというのなら昼13:00以降にお越しください。
それができないようなら、ちかばのまちいしゃにいきなさい。」耳を疑った。。
「これが主治医?」それと同時に、意識がなくなった。
どれだけ倒れていたかわからない後、119番へ。
でんわしたらこの間と同じところ。仕方なく翌朝電話。
12/10日 感染症から腎不全を起こしかけているとことで、緊急入院。
今も入院中ですが、許せないのは、その偽主治医
みなさん絶対に私のようにならないでください。
その病院、JA広島病院
行かないで!
イスラム国のテロ攻撃。
多くの犠牲者が出て悲しみに沈んでいる。
マスコミは一斉に報道、連日の特集。
、、、、、。よくもまあ、メディア作戦にまんまと、、、、
これが彼らの作戦の一部度と思うからだ。
彼らの組織に引き込む方法は、ツイッターやフェースブック
かんたんに、「IS 聖戦 」などと検索をかけると、コンタクトできる。
ものすごく安易にだ。この組織の入口は、不満を持つ人や、興味持つ人間なら、
だれでも入ることができるようだ。
今回のことで、さらに世界中で宣伝され、バカな連中をさらに募る見込みだ。
世界中の不満を持つ連中が、簡単に勧誘され、自爆テロを世界中で企てる。
簡単な爆弾の作り方も、教えてくれるそうだ。
シリアの拠点に空爆しているが、それがさらにそういう人を作りだす。
貧困、差別、不満、憎しみ、解決のつかないその想いを自爆テロで埋めてくれる。
死ねばイスラム教では、天国に行けるからだ。
通常事件を犯したら、逮捕され、裁判にかかり、刑に処されるが、彼らは違う。
一切すべてを引き込んで、自爆。跡形もなくなる。罪のない人たちを巻き込んで、、、、
終戦末期の日本軍の神風とは違うが、国の為に死んでいった特攻隊。
間違っていたたとはいえ、愛する家族の為、国の為、犠牲になっていった。
守りたかった。大切な物の為に、、、、
 だが、彼らは違う。イスラム国での自爆は違う。
はき違ってはいけない。
そこには、体制を恨み、憎しみ、自己中心にかたまった思いからの行為。
ただそれだけ、イスラム教のいいとこだけ神聖化した麻薬忠告者
明らかに、違うことに気がつくべきである。
皆さんは、だれにも負けないというか、揺るがないものがあるだろうか?
仕事に対しての情熱、スキル、また、家庭に対しての愛情の深さ等々、、、
色々なことがあると思う。
他人と比較して、どうのこうのではなく、
私という自分が自信と確信が持てるもの。
そのすべてだ。
ある人は幸せだ。が、ない人はこれから極めなくてはならない。
極める。文字通り、極地のこと。
ギリギリに追い詰めて生死の境を越えたような極地というと、
「無理、言ったことがない」という人も多いと思う。
しかし、極めた人にお話を聞くと、この工程は同じだと気づいた。
平平凡凡とした戦いの人は一人もおらず、常に緊張の連続のような
場面を通り越した人が多い。
後になって、大したことじゃありませんよという人も多いいが、過程は同じ。
そして面白いことに感じている感覚も同じ。
「一つに極まれば、すべてにつながる」
分野の違う匠達がまるで初対面なのに、長年つきあいのある親友のように、
同じ共通項でつながる。
そういう経験をされている人が大半だそうだ。
だから、何でもいい。極めるべきである。
これぞというものを追い求めるべきだ。
この頃、そんなことを思い出す。
改めて、そう思える。
皆さんはどう思われるでしょうか?
聞いてみたいものです。
昔から、よく師匠に聞いたことがある。
「先生、幼いころから苦労が絶えなくて、大人になっても、
様々な苦労をして、死ぬまで苦労するような人がありますが、
そういった人は何のために生まれてきてるんでしょうか?
苦労するために、生まれてきたような人がいるのはどうしてですか?」と
 よく聞いた。どうみても、どうしても、理解できなくて、聞いていた。
しかし、師匠があっけなく言われるには、
「現在だけみると、不幸ばかりかもしれないけどね、実は、氏族を代表するような人は、
何代も先祖が犯してきた罪を一代で償わなくてはいけない人がいるんだ。そういう人は、
歴代の先祖の汚点を一生の中で償うために、苦労が多くなるわけ」と
そうあっさり言われる。
さらに付け加えて言われるのは、「たとえば、10代先祖が犯した罪が、100億円ぐらい
あったとすると、それ、一代の人生で償えると思う?どう思う?
無理だよね。どう考えても、なので、その100億の何千分の一、何億分の一
の償いを償ったら、100億の罪を許してくれるのなら、不平不満言う人がいるだろうか?
本来全額払う必要があるにもかかわらず、その小さな償いでチャラになるのなら、
どんなことをしても、それを行うはずである。それが苦労。病苦、問題、様々な出来事、
自己、突然死、癌、などと、はたから見るといいことじゃない、不幸なことすべてが、
その何千分の1、何万分の1であったら、運命を呪い、不平不満を言えるだろうか?」
そう質問された。
答えなんかわかりきっている。「不平なんか言えない。感謝、感激しかない」と
それが答えだそうだ。
だから、まず感謝する。喜ぶ。受け止める。
そして、全身全霊をかけて、戦う。
それが使命を持つ者の道だと。
ハッキリと離されているのを覚えている。
今、私に問われている。
皆さんにも問われているかもしれない。
まず、感謝を口に出して、喜びましょう。
「こんなことで許してもらえるなら、」と、、、、、。