人の『心』を形容するならば
『アメーバ』が近いのではないだろうか、と
初めて思ったのは中学生の頃だった。

歪で不変を知らないその形は、
正確に再現するには難しく、
いつも僕を悩ませる。

『言葉』を使うことで
それを表現することはできるのだけれど、
僕が使うとどうしても
簡単な形にデフォルメされてしまうのである。

その上、
それは一瞬を切り取ったものでしかなく、
常時変わり続ける過程を含めて
『心』そのものを表現できているとは言い難い。

もどかしくて、
時に苦しい。

そしてそれ以上に難解なのが、
僕が下手に表現した『心』が
別の人の『心』に伝わった時、
それがまた形を変えてしまうことである。

もう別物と言っても過言では無い。
そんなものが相手に伝わるのだと思ったら、
少し怖くも感じる。

だからこそ
『言葉』をどう使うかは重要であり、
精査しながら取捨選択を繰り返す所に
面白さもあるのだとおもう。

如何に表現しても良いという自由なのだ。
伝わらない悲しさや、
分かり合えない孤独は
嘆くべきではない。

伝わらないことを諦めるのは
咎められるものではないが
伝えることを諦めるのにはまだ早いだろう。

生きていれば『心』と共に
考え方も使う言葉も変わっていく。
変わり続けるからこそ
今のその形すらも愛おしい。

僕は『心』が、
それを表現する『言葉』が、
好きなのだ。