(Ⅷ)ー4
ミレーナとの夕餉が終わり、女官達がそれらを片付け終わった頃になって、
「バドゥ典侍輔、キフスク上席女官、帰りましてございます」と、声が掛かった。
「然様か、入れ。」
テルモナが開いた扉から、ハルシゲニアと上席女官が腰を屈めて入って来た。
ポンサン典侍は、それと入れ替わるように、東宮から付いて来た他の女官達を下がらせる。室内に残ったのは、侍従達とポンサン典侍、ガンツ典侍輔、テルモナだけとなった。
入って来た二人は、大変和やかな感じの気を放っている。
「二人共、顔を上げよ。で、ミリンダ氏。ハルナへ、色々と教えてくれたか?」
「はい、太子様」と、キフスク上席女官は一度頭を下げ、次いで、
「バドゥ典侍輔より、開口一番に、『太子様を喰らおうとするならば、吾が己の首を掻き切る』と、言われましてございます」と、はんなりとした笑顔を上げ、眩惑的な瞳の輝きを真っ直ぐに向けて来た。
「おいおい、ハルナ! 何と言う事を……」
思わず声を上げ、周囲を観遣れば、ポンサン典侍はあんぐりと口を開けており、他の者達は俯き固まっている。ただ、横のミレーナだけが、袖で顔を覆い隠し、その陰で微苦笑を口元に浮かべていた。
【これが、ハルシゲニアの常套手段――攻撃は最大の防御? と、言う事なのか?】
心中で唸りつつも、
「それで?」と、表面上は平然とした態で、上席女官の方へ真っ直ぐに向く。
「はい、太子様。魔猫と申す生き物は、狩った物を全食するが慣習( ならい)にございますれば、太子様の御相精力 ( おちから )は、吾の腹に収まり切りませぬ由、伝えましてございます。」
「成る程。で、ハルナ。他には何を教わったのだ?」
「はい、太子様」と、ハルシゲニアも、上席女官と同様に一度頭を下げ、
「食事処の椅子に座りましたる時、『裳の内で外から見えずとも、胡坐は掻かぬ方がよい』と教わりましてございます。」
ポンサン典侍達女官三人は、「ええっ!?」と言う驚きと呆れの混ざった視線で、ハルシゲニアの顔をまじまじと見遣る。しかし、ハルシゲニアは、全く動じる事無く、
「また、『宮中においては、女官たるものは、腕を剥き出し、鬼の力で以て物事を為さぬがよい』とも教わりましてございます。仮令、姉上の調度品を動かす時であっても」と、続ける。
すると、ポンサン典侍が横から、
「申し上げます、太子様。柳花房様には、日々の御生活の上で、雑色と部屋子が必要ではなかと存じ上げます。」
「雑色……は、先程、説明してもらったが、部屋子?…とは?」
「はい、太子様。入内いたしました御方に、御実家から付いて参ります女官にございます。時に、女官見習いとして参る者もございます。」
「申し上げます、太子様。局室を頂きました役付き女官も、持つ事が出来ますので、ハルナ殿も、持たれては如何かと……。何分にも、お役を兼務しておりますので」と、ガンス典侍輔が付け加えた。
「ふむ、成る程。確かになあ……。だが、ミレーナやハルナの部屋子になってくれるような者は、居るのか?二人には、頼りになるような親族が居るようには……」と、首を傾げてミレーナの方を向く。ミレーナも首を傾げ、ハルシゲニアへと視線を向ける。
ポンサン典侍が、
「ハルナ。柳花房様の雑色、部屋子の人選に付きましては、侍従長様も交えて、しっかりと御相談致しましょう。」
傍から、ガンス典侍輔が、
「ポンサン典侍。とは申しましても、余り、ゆるゆるとして居るのは如何なものかと。柳花房様には、全く後ろ盾がございませんから、それを好い事に、胡乱な輩共が近付きはせぬかと……」と、小声で言う。すると、横から、上席女官が、
「近寄る鼠共は、此の猫が、総て獲って食べます故、御心配無く」と、はんなりとした声で微笑んだ。
「ああ! 然様ですね!それ故の上席殿なのですね!」と、ガンス典侍輔が顔を輝かす。
「有り難い、王妃様の御配意だったのですね!」
ポンサン典侍は、喜色満面の声を上げ、
「キフスク上席女官殿を付けて頂けたと言う事は、正に、鬼に金棒です!しっかりと、御頼み申します」と、上席女官に向け、頭を下げた。ハルシゲニアもにっこりと笑い、
「上席殿! よろしく御願い致します」と、深く低頭する。
【おいおい!近寄る鼠!?―― 近寄る者?……を、獲って食べるだと! これは、かなり物騒な話をしているのではないか? それも、嬉々として……。】
そろりと、侍従長の方を向き、小声で、
「トルクル。女官達が何やら、恐ろしげな事を、平然と、算段しているのではないのか?」
「はい、太子様。奥に於きましては、御側室様や御子様方が争い事に巻き込まれぬように、しっかりと気配りし、適切な対処を致します事は、侍女官や侍従の重要な仕事にございます。奥での不穏は、表の政へも響きかねませんので、はい。」
「適切な対処ねぇ……。それ故、間者も常時、存在しておる訳か……。」
思わず知らず、大きく息を吐いていた。
ハルシゲニアが急にこちらへ向き、
「申し上げます、太子様」と、礼を取った。
「誠に申し訳ございませんが、明日、宿下がりをさせて頂けませんでしょうか。実家の者に、この事、知らせておかねばと存じますので……。」
「おお! それはそうだ!斯様な仕儀と相成った事を、家族が全く知らぬではなあ。急ぎ、知らせてくれ。」
「太子様。それに関しましては」と、ポンサン典侍が口を挟んだ。
「柳花房様の御実家の方へは、明日か明後日には必ず、正式の伝送があろうかと。」
そして、ハルシゲニアへ、
「ハルナ。その時、支度金も届けられますから、御家族の生計の心配も無くなりましょう」と、笑顔を向ける。言われたハルシゲニアは、急に厳しい顔付きとなり、
「そうなりますと、余計に急ぎ宿下がりをさせて頂かねば。家族は都の南西の端――都壁に接する処に暮らしております。そこへ、王宮より正式の使者の方がいらしたともなれば、胡乱どころか、たかりの有象無象が、近隣から押し寄せる可能性が……。」
「都の南西の端と言えば……。」
ポンサン典侍も眉根を寄せ、
「侍従長様。何方か、手の者を出す事、お願い出来ますでしょうか?」と、トルクルを見遣る。
「それは確かに、有り得る事!」
侍従長は大きく頷き、
「手の者を配するより、いっそ、お住まいを変えられた方がよろしいかと……。」
「あの、侍従長様。実家は、直ぐに直ぐ、新たな所を探し、引っ越せるような状況ではございませんので……。家の近くには、阿児女( あこめ)の配下のような者達が居りますので、宿下がり時に、その者達へ警備等を頼みます。」
「ハルナ。それは、信頼出来得る者共なのですか?」
ポンサン典侍の心配顔へ、
「その者共は、ハルナ殿が、‘鬼の箒’で叩きのめして子分になさった者共では?だとすれば、ハルナ殿に絶対服従にございましょう」と、上席女官が傍で含み笑いを漏らす。
「まあ、その……。はい、然様です。ですから、大丈夫です」と、苦笑い声で言うハルシゲニア。
「ハルナに忠実な者ならば、何であれ、大事無いでしょう。」
ポンサン典侍は頷いた。だが、直ぐに続けて、
「とは言え、太子様の、承恩典侍様の御実家が、そのような場所へ在ると言うのはどうも……。矢張り、もそっとよろしい場所へ、屋移りなされるべきかと……」と、侍従長の顔を窺う。
「太子様。柳花房様の御実家の方々の、新たなお住まい、こちらで、早急に手配させて頂きます」と、侍従長が頭を下げる。
「あ、その、済まぬ、トルクル。余は今、都の様態等、分からぬ故、其方達が問題としている事柄が、能く呑み込めぬのだが……。」
「申し訳ございません、太子様。都の南西――都壁外の低地には、貧民と下民の巣窟がございまして……。」
「貧民に、下民?……王国の民ならば、その民達が困窮せぬようにするのが、王家の務めではないのか?」
「殆どの貧民は下級魔で、下民は人と変わらぬ輩です、太子様。」
「トルクル! 下級魔や人は、どうでもよいと言うのか!」
つい強まった声に、
「いえ、太子様。そのような事は……。本来は、仰せの通りにございますが……」と、焦り声を上げる侍従長。それを遮るように、ハルシゲニアが、
「申し上げます、太子様。あそこは、流民の掃き溜めのような所です」と、会話に割って入って来た。
「流民とは、本来の己の生活の場では食べて行かれなくなり、そこを離れて浮浪する者の事です。その者達が、都ならば少しは何とかならぬかと、都を目指す。だが、都へ来たからとて、何にもならない。結局は貧民街へ。そして、そのまま、代を重ねている者も。」
「そのような者達を生じさせないようにするのが、政( まつりごと)ではないのか? 民の安寧を第一に成すのが、政であろう? 」
「然様でございます! 太子様! それが理想。それが、本来の政が目指すところです。ですが、現実は、そうではありません。そうなっていないのですよ、太子様!公侯も重臣も、王国の安寧より、己の利権ばかり考えて行動している。その結果が、民草を疲弊させ、流民や盗賊を生み出している。その事を、大王様は御存知なのかどうかも、何をどうお考えになられて、何をなさろうとなされておられるのかも、吾如きには、全き分かりません。ですが、王国の多数の者が飢え苦しみ、怨嗟の声を発しているのが、今現在の、現実です。」
不可思議な笑みを浮かべて前を向いている上席女官以外の者達は、呆気顔でハルシゲニアを見詰めている。その視線を物ともせず、ハルシゲニアは、
「では、それを誰が、正すのですか? 太子様に出来ますか? 今の状況の太子様に! 如何ですか?」
「確かに、然様だな……。ハルナの言う通りだ。」
思わず俯き、ふっと溜息を吐いた。が、しかし、直ぐに、頭をもたげ、
「何が為せるか、為せないか等と思う前に、その前提となる記憶を取り戻し、必要となる知識を得なければな!それからだ」と、深呼吸をする。その呼吸を引き取るように、ハルシゲニアは、大きく息を吸い込み、
「それと共に、その間に、今の地位を失わぬよう、気を配る事だ」と、低い声を吐き出した。
途端に、部屋全体の気が、ハルシゲニアの口から発せられた低音で押さえ付けたかのように静まる。
その重苦しい空気の中、全く関わり合いが無いと言った態で、上席女官が、
「吾は、夜は茅蔵( ちぐら)の森へ帰らせて頂く事となっております故」と、はんなりとした声をあげた。その声に、便乗するように、ポンサン典侍が、
「申し上げます、太子様。バドゥ典侍輔に頂きました局への案内と、その使用や注意事項を伝えねばなりませんので、今宵はこちらへは侍れませんかと……」と、畏まった態で言う。
「然様か。ハルナも、初めての事ばかりであろうから、能く能く、教えて貰えよ。」
「はい、太子様。」
ハルシゲニアは、先程とは打って変わって、可愛らしい声で応えた。
「柳花房様。それでは吾は、これにて御無礼致します」と、上席女官は礼を取った。
「あ、はい」と、ミレーナは、やや慌てたように応じ、次いで、
「ポンサン典侍殿には、何やら、次々と御迷惑ばかりお掛けしているような……。妹の事、今後とも、どうかよろしく、お願い致します」と、頭を下げる。
【そうだ! ここで一つ、確認しておくべきだろうな……。】
すっと左手を伸ばし、ミレーナの手を握る。ミレーナのびくりっとした身体の動きと共に、
[えっ! た、太子様……]と、ミレーナの心中の声が伝わって来た。
[これが、ハルシゲニアが言っていた『接触感応』なのだな?]
[あ、は、はい。然様にございます。ですが、何か……?]
ミレーナは、恥ずかしげに顔を赤らめ、俯く。
[こうしての遣り取りは、他の者には知られる事はないのだな?]
[はい、通常は、無いかと……。このようにしております時に、強力な〈相力〉を持った物が外から、太子様やわたくしの思考を読み取る事さえなければ……。]
[そうか。ハルナが「ミレーナは、特別なのだ。下級妖魔ではあるが、接触感応と〈気圧〉に対する抵抗力は、そんじょそこらのヤワな上級魔の〈相力〉なんぞ、軽々と越えておるわ!」と、己が事のように自慢げにいっていたから、読まれる事は、まず有り得ないだろうな!では、これからは、君やハルシゲニアにのみ伝えたい事や相談したい事は、このようにして伝えるようと思うのだが、いいだろうか?]
[はい。然様に心得ます。]
ミレーナからのしっかりとした頷きのような思考を受け取り、握っていた手をそっと放し、
「このまま、一緒に居りたい気分ではあるが……。然り乍ら、母上との約束が有る故なあ。間者まで仕立てて見張っておられるとなるとなあ」と、立ち上がる。
「太子様。東宮へお帰りになられるのですか……。」
ミレーナ付女官テルモナが、「思わず」と言うようにこちらを見た。
「テルモナ。今夜はここに其方一人となるが、ミレーナの事、よろしく頼むぞ」と、笑顔を向ける。
「はい、太子様。しかと勤めまする」と、慌てたように頭を下げる。
「勤めとしてのみならず、友としても、ミレーナと仲良くなってくれ、テルモナ。ミレーナもな」と、言うと、ミレーナは立ち上がり、
「はい、太子様。万事、太子様の御心に沿いますよう、致します」と、見送りの礼を取った。
その傍で、きっちりと礼を取りつつも、緊張の色を見せるテルモナへ、上席女官が、
「猫と言う生き物は、本来、夜行性。吾の子・孫は、住まいの茅蔵( ちぐら)の森を出て、夜な夜な能くこの辺りを徘徊しておりますので、鼠は全き近寄りませぬよ。安心為されませ」と、微笑んだ。
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