Nightingale. D. J. & Cromby, J. 2002. Social Constructionism as Ontology: Exposition and Example, Theory & Psychology, 12(5): 701-13.
本論文の要約:
本論文でNightingaleとCromby(N&C)は、社会的構築主義の特質と世界の性質についての反実在論的主張が誤りであることを主張する。特に、N&Cは、しばしば構築主義の特性と見なされる指示性(referentiality)と客観性(objectivity)の不可能性に関する主張が当面の主題の性質において、そして素朴な客観主義と実在論の理論的批判から導かれる帰結において誤りであることを主張する。本論文では、科学の(批判的)実在論的哲学に依拠し、事例研究を使用しながら、そこで提起される構築主義のバージョンがより説得的で、信頼でき、これまでの他の構築主義のバージョンよりも有益であることを示す。
キーワード:反実在論、構築主義、存在論、実在論、相対主義
・トピック:構築主義における実在論・反実在論論争
......特に、表象から独立の世界を指示し、それを適切に理論化する可能性が論点となる
・構成:
指示性と客観性に関する「強い」構築主義的反実在論の主張を支持する理論的・哲学的想定の批判的要約
( i ) 指示性:言語が外的リアリティに指示的なものとして見なされる範囲について
( ii ) 客観性:世界についての「真」または客観的な知識を獲得することの不可能性について
科学の(批判的)実在論哲学への依拠により、( i )( ii )に関する反実在論的主張が誤りである事を指摘する。そこで、構築主義の主要な教義と共鳴する仕方で、可知的で言説を超えた(extra-discursive)「リアリティ」を理論化することが可能である事を主張する[701-2]。また、事例研究では「批判的実在論」的な構築主義がより信頼でき、実用性があり、より「真理」に近いことを例証する。
§1. Realism and Anti-realism
・実在論と反実在論の論争の中核には二つの対立する主張がある
a. 実在論:外的世界はわれわれの表象から独立に存在するという教義(Searle 1995)
b. 反実在論:われわれから独立のリアリティを前提としたり研究しなければならない理由はないという信条(e.g. Potter 1998)
・論争の範囲は多岐にわたるがそこで中心的な反実在論者の主張は、指示性と客観性の問題に関係する
( i )指示性:言語が言語を超えて、あるいはそれ以前の世界に言及しうると言える範囲に関する
( ii )客観性:世界についての認識論的主張ではなく存在論的主張をなしうる範囲に関する
...検討素材として、主に、K. Gergenの反実在論的構築主義を扱う
§2. Referentiality
How should we answer questions about what is 'independent of language' save through language? (Gergen 2001, p.425)
・「言語と知識は客観的に知解可能なリアリティの反映ではなく、社会的に構築されている」という主張は構築主義的な議論の中核にあり、しばしば混乱をうみだす源泉となっている[703]。
・たとえば、上述の主張が「言語は外的リアリティの側面や特性に言及するものではない」ことを含意するとき、構築主義は懐疑主義や観念論以上のものではなくなるという批判がある(Collin 1997)。
・この種の批判に対しては、現実とみなされるもののボトム・ラインもまた社会的に達成されること(Edwards et al. 1995:37)や、記述がリアリティの像や鏡として機能し得るものの、記述はその機能が埋め込まれている局所的な言語ゲームに依存すること(Gargen 1994:84)を指摘する「強い」構築主義的な主張がなされてきた。
「強い」構築主義:
観念論的でも言語的決定論でもなく、リアリティについての存在論的主張を行うものではなく、存在論に関しては不可知論的に沈黙に徹する(ex. 特定の場面のなかには多様な対象があるが、対象はディスコースの中の位置の外部に特性を持たない)
しかし、N&Cは「強い」構築主義的主張がしばしば存在論的主張を回避しつつも同時に存在論についての前提に依拠していることを示唆し、次のように論を展開する。
・「強い」構築主義が対象やリアリティについての存在論的主張を行うものでないなら、全ての対象が言語的に構築されているとは言えない。
・そして、もし対象が言語から独立に存在するなら、対象が物質的に完全に単一のものでない限りそれらは示差的特性を持つはずである。
・もし対象が示差的特性をもつなら、われわれが世界を社会的に構築するために使用する言語と活動がこれらの差異に言及(指示)しないということは擁護できない。
・このような差異の存在とその言語的指示対象の容認はしかし、Gergenのような論者が恐れる神聖視された客観性の主張を含意する必要はない。
§3. Objectivity and Truth
... I am certainly not trying to answer ontological questions about what sort of things exist. The focus is upon the way people construct descriptions as factual, and how others undermine those constructions. This does not require an answer to the philosophical question of what factuality is. (Potter 1996:6)[704]
構築主義の完全に言説的なバージョン(e.g. Gergen, Potter)に対して、外的リアリティを考慮し誤ることが批判されてきた。たとえば、構築主義が指示性の限定的な形式を受容するか否かに関してのみならず、その問題を通して言説的実践と人間の経験が、主観性、具体化されたもの(embodiment)、物質性、倫理、権力といった外的リアリティの相のなかに“既に”根付いていること、それにより構造化されることを完全に言説的な構築主義のバージョンは理論化し誤ることが問題とされている(e.g. Brown 2001; Burkitt 1999; Cromby&Nightingale 1999)。
・「強い」構築主義は、外的なリアリティの相に言語的実践と経験が既に根付いていることやそれにより構造化されていることを理論化できず、また、それを同時に前提としている。
・外的リアリティへの言語的実践と経験のrootingを理論化しようとすれば、言語を超えた外的リアリティの相について素朴な実在論や客観主義とは異なる理論化の指向を検討する必要がある。
・“真なる”知識を獲得する外的リアリティの想定は必然的に基礎づけ主義を含意するものではない。
:多くの反実在論者は全ての実在論の形式が基礎づけ主義的であると想定する。実在論者は客観的表象としての世界の叙述に特権的にアクセスしうるという含意がそこにはある。しかし、Sayer(2000:43)の言うように、特定の命題や主張が真であると言うことはその命題や主張が強制不可能であることを言うことではない。それらの命題や主張は後に誤りとなりうるだけではなく、誤りでないとしても完全な主張というより不完全なものとして、欠点のあるより広い概念的シェーマの中に統合されるものであることが指摘されうる[704-5]。
「科学的実在論」研究(Norris 1997):現象の“部分的”説明
言語は物質の完全な鏡像ではないが、そのことは言語を自律的で超越的で
free-floatingな完全に自己言及的なものとして考えることを必ずしも含意しない。
言語は誤った、不完全な指示を遂行する。
・存在論的な沈黙を保持する構築主義を、存在論としての構築主義に転換する必要性の提起
:構築主義は世界についての単なる知識以上に世界の実際の「性質」を検討するための説明枠組として機能する潜在性を持つ—知識が常に社会的慣習に還元されるという「強い」構築主義の主張に対して[705-6]。
:言語と物質性、世界と言葉の不完全な調和は、その適用と状況づけられた使用のコースのなかで言語が実際にリアリティを相互的に構成する(co-constitute)ことを意味する不確定性、フレキシビリティ、非決定性を創出する。言語的意味と意味作用の働きは具体化、物質性、社会-文化的制度、匿名的な実践、その歴史的軌道(それらすべてが権力により構造化されその構造を再生産する)により成形され、拘束されており、言語はわれわれの世界を独立に遍在的に構成するわけではない。しかし、このような拘束性のなかで、言語は、その客観的物質性において、われわれの経験するリアリティを言語的に相互的に構成する。
※言語の具体化と客観的物質性...経験と言語的実践、リアリティの相互的構成のプロセス
§4. Case Study
・人間が相互的に構成されるという以上で示唆した見解の有効性をデモンストレートする。
①理論的・概念的に一貫しており、デカルト主義やエージェンシー/構造の二元論への陥落の回避
②倫理的・道徳的にセンシティブで、政治的に進歩的
③他の説明(典型的に本質主義、個人主義的な)よりも信頼できる有用性と利便性
※事例研究でのポイント:言説的な社会的実践による主観性を相互的に構成すること
関連研究:
・具現性の強調と存在論と認識論の区別を超越する社会分析の三つの水準の指定(Burkitt 1999):コミュニケーション関係、権力関係、“リアル”を変容する関係
・社会化を通して、子どもが知覚と活動を局所的に正当化された利用可能な自己についての観念に調和す
るように組織化する(Harre 1987)
・社会的相互作用の構成的な潜在性;子どもにあることをすることを教えることは、同時に、彼がいかにあるべきかを教えることでもある(Shotter 1989)
・医療心理学への社会生態学的アプローチ(Smail 1984)
・感情と社会的判断を媒介する脳メカニズムについての神経学的説明(Demasio 1994)
:社会的に条件づけられた感情構造により一貫した仕方で合理性が転覆されること、神経学的に実証された非合理性のパターンが社会的相互作用の意図せざる副産物であることを指摘。主観性はそこで、われわれが有意味に選択することによるのではない、下位文化的なニッチにおける活動の社会的&言説的に構造化された具体的な産物、創発としてみられる[707]。
事例:1993年に起った3歳児の10歳児による誘拐殺人事件
—少年犯罪の犯人の主観性の相互的構成に関する研究
・具現化された主観性(embodied subjectivity)の概念の提示
個人の主観性が個体発生的に、かつ状況づけられた相互作用のなかで言説的に構成されることを強調する
:この観点は、構築主義と神経科学を結合し、生物学的なものと社会的なものを生物学的決定論に陥るこ
となく統合する[709]。
:N&Cは、相対的貧困と性的、身体的、感情的逸脱といったこの種の犯罪の誘因とされる要因を扱いつつ、その相乗作用による結果を強調する政治的な分析のなかのデカルト主義的な個人—社会の二元論に抵抗する。
・社会的プロセスと生物学的メカニズムが個人の経験に影響を与えることは否定されない。しかし、それらはexhaustibleでも固定的でもない。おなじメカニズムが変容や改良を可能にするオルタナティヴな社会的プロセスとともに作用することもある。
・相対的に異常な物質的&社会—感情的影響のマトリクスは少年の下位文化的なニッチを構造化している。
・少年はその活動を通して、具現化された感情的レパートリーと言説的に構成された意味構造を獲得し、それらは彼らの主観性を相互的に構成している。
・しかし、このプロセスの形態発生的性格はそこに含まれる言説的構造の不完全な指示性により活性化され、その結果は予期されない[709-10]。→非決定論
§5. Conclusion
・反実在論的な/「強い」構築主義の問題点
指示性と客観性の社会的慣習的性質についての構築主義の主張は誤った認識論に依拠している。
:それは、素朴実在論者と客観主義者による社会的&心理的リアリティのアカウントの徹底的な批判を提供するが、最良でも限定的で部分的なアカウントを与えるだけであり、最悪の場合には単に批判する立場の概念的で理論的な問題を逆向きにするに過ぎない。
つまり、これらのアカウントはしばしば「モノ」の実在を認めるが、他の「モノ」からの境界、そしてなんであれこれらの「モノ」が際立つ背景と見なされるものの境界を社会的慣習と同一視する。そこでそれらのモノの「性質」は不可知で、無意味なものとされ、さらなる検討を保証しないような言説的実践により覆い隠されている。
↑
・構築主義の批判的実在論的の存在論
指示性と客観性は常に部分的で限定的であり、必然的にさらなる経験的&言説的な改訂に依存する。その限りで可能なものとして保証される。
・批判的実在論の観点から、次のことが可能になる
①社会的構築のプロセスを認識論的であるだけでなく存在論的なモノの構成や形成のプロセスとして見ることが可能になる方法の考察
②研究者のアカウントの正確さについての評価が可能になるような概念的で理論的なフレームワークの獲得
・ここで提示した事例研究は、構築主義がそのプロセスの言説的に利用可能な「結果」にほかならないものの分析に限定されるのではなく、われわれの主観性を形成する社会的、物質的、生物学的「プロセス」を精緻化しうることを示す。
・まとめ—構築主義とN&Cの立場(批判的実在論)の関係
N&Cは、構築主義的分析にコミットするが、彼らが提案する構築主義の形式は、反実在論的な構築主義の形式と通約不可能的である。言語の外部に分析を位置づけることの必要性と可能性についての主張は、たとえばGergenの認識論のようにそこで言語が“常に”第一のものと見なされるような認識論により否定される。しかし、ここで提示される構築主義の形式は、構築主義が言語的相対主義“と”素朴実在論と客観性についての様々な陥穽を回避しながら発展するための一つの可能な方法をスケッチする。
構築主義は必然的に“部分的”で常に矯正可能な存在論の中に根付いたままでありながら、われわれの存在(being)の言説的な相と超言説的な相の両方を包摂し、適切に理論化するための可能性をもつ研究の経験的プログラムとして見ることができる。
本論文の要約:
本論文でNightingaleとCromby(N&C)は、社会的構築主義の特質と世界の性質についての反実在論的主張が誤りであることを主張する。特に、N&Cは、しばしば構築主義の特性と見なされる指示性(referentiality)と客観性(objectivity)の不可能性に関する主張が当面の主題の性質において、そして素朴な客観主義と実在論の理論的批判から導かれる帰結において誤りであることを主張する。本論文では、科学の(批判的)実在論的哲学に依拠し、事例研究を使用しながら、そこで提起される構築主義のバージョンがより説得的で、信頼でき、これまでの他の構築主義のバージョンよりも有益であることを示す。
キーワード:反実在論、構築主義、存在論、実在論、相対主義
・トピック:構築主義における実在論・反実在論論争
......特に、表象から独立の世界を指示し、それを適切に理論化する可能性が論点となる
・構成:
指示性と客観性に関する「強い」構築主義的反実在論の主張を支持する理論的・哲学的想定の批判的要約
( i ) 指示性:言語が外的リアリティに指示的なものとして見なされる範囲について
( ii ) 客観性:世界についての「真」または客観的な知識を獲得することの不可能性について
科学の(批判的)実在論哲学への依拠により、( i )( ii )に関する反実在論的主張が誤りである事を指摘する。そこで、構築主義の主要な教義と共鳴する仕方で、可知的で言説を超えた(extra-discursive)「リアリティ」を理論化することが可能である事を主張する[701-2]。また、事例研究では「批判的実在論」的な構築主義がより信頼でき、実用性があり、より「真理」に近いことを例証する。
§1. Realism and Anti-realism
・実在論と反実在論の論争の中核には二つの対立する主張がある
a. 実在論:外的世界はわれわれの表象から独立に存在するという教義(Searle 1995)
b. 反実在論:われわれから独立のリアリティを前提としたり研究しなければならない理由はないという信条(e.g. Potter 1998)
・論争の範囲は多岐にわたるがそこで中心的な反実在論者の主張は、指示性と客観性の問題に関係する
( i )指示性:言語が言語を超えて、あるいはそれ以前の世界に言及しうると言える範囲に関する
( ii )客観性:世界についての認識論的主張ではなく存在論的主張をなしうる範囲に関する
...検討素材として、主に、K. Gergenの反実在論的構築主義を扱う
§2. Referentiality
How should we answer questions about what is 'independent of language' save through language? (Gergen 2001, p.425)
・「言語と知識は客観的に知解可能なリアリティの反映ではなく、社会的に構築されている」という主張は構築主義的な議論の中核にあり、しばしば混乱をうみだす源泉となっている[703]。
・たとえば、上述の主張が「言語は外的リアリティの側面や特性に言及するものではない」ことを含意するとき、構築主義は懐疑主義や観念論以上のものではなくなるという批判がある(Collin 1997)。
・この種の批判に対しては、現実とみなされるもののボトム・ラインもまた社会的に達成されること(Edwards et al. 1995:37)や、記述がリアリティの像や鏡として機能し得るものの、記述はその機能が埋め込まれている局所的な言語ゲームに依存すること(Gargen 1994:84)を指摘する「強い」構築主義的な主張がなされてきた。
「強い」構築主義:
観念論的でも言語的決定論でもなく、リアリティについての存在論的主張を行うものではなく、存在論に関しては不可知論的に沈黙に徹する(ex. 特定の場面のなかには多様な対象があるが、対象はディスコースの中の位置の外部に特性を持たない)
しかし、N&Cは「強い」構築主義的主張がしばしば存在論的主張を回避しつつも同時に存在論についての前提に依拠していることを示唆し、次のように論を展開する。
・「強い」構築主義が対象やリアリティについての存在論的主張を行うものでないなら、全ての対象が言語的に構築されているとは言えない。
・そして、もし対象が言語から独立に存在するなら、対象が物質的に完全に単一のものでない限りそれらは示差的特性を持つはずである。
・もし対象が示差的特性をもつなら、われわれが世界を社会的に構築するために使用する言語と活動がこれらの差異に言及(指示)しないということは擁護できない。
・このような差異の存在とその言語的指示対象の容認はしかし、Gergenのような論者が恐れる神聖視された客観性の主張を含意する必要はない。
§3. Objectivity and Truth
... I am certainly not trying to answer ontological questions about what sort of things exist. The focus is upon the way people construct descriptions as factual, and how others undermine those constructions. This does not require an answer to the philosophical question of what factuality is. (Potter 1996:6)[704]
構築主義の完全に言説的なバージョン(e.g. Gergen, Potter)に対して、外的リアリティを考慮し誤ることが批判されてきた。たとえば、構築主義が指示性の限定的な形式を受容するか否かに関してのみならず、その問題を通して言説的実践と人間の経験が、主観性、具体化されたもの(embodiment)、物質性、倫理、権力といった外的リアリティの相のなかに“既に”根付いていること、それにより構造化されることを完全に言説的な構築主義のバージョンは理論化し誤ることが問題とされている(e.g. Brown 2001; Burkitt 1999; Cromby&Nightingale 1999)。
・「強い」構築主義は、外的なリアリティの相に言語的実践と経験が既に根付いていることやそれにより構造化されていることを理論化できず、また、それを同時に前提としている。
・外的リアリティへの言語的実践と経験のrootingを理論化しようとすれば、言語を超えた外的リアリティの相について素朴な実在論や客観主義とは異なる理論化の指向を検討する必要がある。
・“真なる”知識を獲得する外的リアリティの想定は必然的に基礎づけ主義を含意するものではない。
:多くの反実在論者は全ての実在論の形式が基礎づけ主義的であると想定する。実在論者は客観的表象としての世界の叙述に特権的にアクセスしうるという含意がそこにはある。しかし、Sayer(2000:43)の言うように、特定の命題や主張が真であると言うことはその命題や主張が強制不可能であることを言うことではない。それらの命題や主張は後に誤りとなりうるだけではなく、誤りでないとしても完全な主張というより不完全なものとして、欠点のあるより広い概念的シェーマの中に統合されるものであることが指摘されうる[704-5]。
「科学的実在論」研究(Norris 1997):現象の“部分的”説明
言語は物質の完全な鏡像ではないが、そのことは言語を自律的で超越的で
free-floatingな完全に自己言及的なものとして考えることを必ずしも含意しない。
言語は誤った、不完全な指示を遂行する。
・存在論的な沈黙を保持する構築主義を、存在論としての構築主義に転換する必要性の提起
:構築主義は世界についての単なる知識以上に世界の実際の「性質」を検討するための説明枠組として機能する潜在性を持つ—知識が常に社会的慣習に還元されるという「強い」構築主義の主張に対して[705-6]。
:言語と物質性、世界と言葉の不完全な調和は、その適用と状況づけられた使用のコースのなかで言語が実際にリアリティを相互的に構成する(co-constitute)ことを意味する不確定性、フレキシビリティ、非決定性を創出する。言語的意味と意味作用の働きは具体化、物質性、社会-文化的制度、匿名的な実践、その歴史的軌道(それらすべてが権力により構造化されその構造を再生産する)により成形され、拘束されており、言語はわれわれの世界を独立に遍在的に構成するわけではない。しかし、このような拘束性のなかで、言語は、その客観的物質性において、われわれの経験するリアリティを言語的に相互的に構成する。
※言語の具体化と客観的物質性...経験と言語的実践、リアリティの相互的構成のプロセス
§4. Case Study
・人間が相互的に構成されるという以上で示唆した見解の有効性をデモンストレートする。
①理論的・概念的に一貫しており、デカルト主義やエージェンシー/構造の二元論への陥落の回避
②倫理的・道徳的にセンシティブで、政治的に進歩的
③他の説明(典型的に本質主義、個人主義的な)よりも信頼できる有用性と利便性
※事例研究でのポイント:言説的な社会的実践による主観性を相互的に構成すること
関連研究:
・具現性の強調と存在論と認識論の区別を超越する社会分析の三つの水準の指定(Burkitt 1999):コミュニケーション関係、権力関係、“リアル”を変容する関係
・社会化を通して、子どもが知覚と活動を局所的に正当化された利用可能な自己についての観念に調和す
るように組織化する(Harre 1987)
・社会的相互作用の構成的な潜在性;子どもにあることをすることを教えることは、同時に、彼がいかにあるべきかを教えることでもある(Shotter 1989)
・医療心理学への社会生態学的アプローチ(Smail 1984)
・感情と社会的判断を媒介する脳メカニズムについての神経学的説明(Demasio 1994)
:社会的に条件づけられた感情構造により一貫した仕方で合理性が転覆されること、神経学的に実証された非合理性のパターンが社会的相互作用の意図せざる副産物であることを指摘。主観性はそこで、われわれが有意味に選択することによるのではない、下位文化的なニッチにおける活動の社会的&言説的に構造化された具体的な産物、創発としてみられる[707]。
事例:1993年に起った3歳児の10歳児による誘拐殺人事件
—少年犯罪の犯人の主観性の相互的構成に関する研究
・具現化された主観性(embodied subjectivity)の概念の提示
個人の主観性が個体発生的に、かつ状況づけられた相互作用のなかで言説的に構成されることを強調する
:この観点は、構築主義と神経科学を結合し、生物学的なものと社会的なものを生物学的決定論に陥るこ
となく統合する[709]。
:N&Cは、相対的貧困と性的、身体的、感情的逸脱といったこの種の犯罪の誘因とされる要因を扱いつつ、その相乗作用による結果を強調する政治的な分析のなかのデカルト主義的な個人—社会の二元論に抵抗する。
・社会的プロセスと生物学的メカニズムが個人の経験に影響を与えることは否定されない。しかし、それらはexhaustibleでも固定的でもない。おなじメカニズムが変容や改良を可能にするオルタナティヴな社会的プロセスとともに作用することもある。
・相対的に異常な物質的&社会—感情的影響のマトリクスは少年の下位文化的なニッチを構造化している。
・少年はその活動を通して、具現化された感情的レパートリーと言説的に構成された意味構造を獲得し、それらは彼らの主観性を相互的に構成している。
・しかし、このプロセスの形態発生的性格はそこに含まれる言説的構造の不完全な指示性により活性化され、その結果は予期されない[709-10]。→非決定論
§5. Conclusion
・反実在論的な/「強い」構築主義の問題点
指示性と客観性の社会的慣習的性質についての構築主義の主張は誤った認識論に依拠している。
:それは、素朴実在論者と客観主義者による社会的&心理的リアリティのアカウントの徹底的な批判を提供するが、最良でも限定的で部分的なアカウントを与えるだけであり、最悪の場合には単に批判する立場の概念的で理論的な問題を逆向きにするに過ぎない。
つまり、これらのアカウントはしばしば「モノ」の実在を認めるが、他の「モノ」からの境界、そしてなんであれこれらの「モノ」が際立つ背景と見なされるものの境界を社会的慣習と同一視する。そこでそれらのモノの「性質」は不可知で、無意味なものとされ、さらなる検討を保証しないような言説的実践により覆い隠されている。
↑
・構築主義の批判的実在論的の存在論
指示性と客観性は常に部分的で限定的であり、必然的にさらなる経験的&言説的な改訂に依存する。その限りで可能なものとして保証される。
・批判的実在論の観点から、次のことが可能になる
①社会的構築のプロセスを認識論的であるだけでなく存在論的なモノの構成や形成のプロセスとして見ることが可能になる方法の考察
②研究者のアカウントの正確さについての評価が可能になるような概念的で理論的なフレームワークの獲得
・ここで提示した事例研究は、構築主義がそのプロセスの言説的に利用可能な「結果」にほかならないものの分析に限定されるのではなく、われわれの主観性を形成する社会的、物質的、生物学的「プロセス」を精緻化しうることを示す。
・まとめ—構築主義とN&Cの立場(批判的実在論)の関係
N&Cは、構築主義的分析にコミットするが、彼らが提案する構築主義の形式は、反実在論的な構築主義の形式と通約不可能的である。言語の外部に分析を位置づけることの必要性と可能性についての主張は、たとえばGergenの認識論のようにそこで言語が“常に”第一のものと見なされるような認識論により否定される。しかし、ここで提示される構築主義の形式は、構築主義が言語的相対主義“と”素朴実在論と客観性についての様々な陥穽を回避しながら発展するための一つの可能な方法をスケッチする。
構築主義は必然的に“部分的”で常に矯正可能な存在論の中に根付いたままでありながら、われわれの存在(being)の言説的な相と超言説的な相の両方を包摂し、適切に理論化するための可能性をもつ研究の経験的プログラムとして見ることができる。