Hacking, I. 1999. The Social Construction of What?, Harvard University Press.
本書については、後で改めてレビューという形でまとめる・・・つもり。


Chap 1 : なぜ「何が」を問うのか?—Why Ask What ?—

本書の目的は、「社会的構成」の概念を分析することにある[3]


1. 1 相対主義—Relativism—

(略)

1. 2 最初に定義をするな、代わりに意図を問え—Don't first define, Ask for the point—

ハッキングの方針は、社会的構成や社会構成主義という言葉で意味されるものを初めに定義するのではなく、あるものの分析を通じてそれが「社会的に構成されている」と主張する時、その主張の目的を見定めるというものである。彼にそれは、あるものが社会的構成物であると主張されるとき問題意識の喚起が目的とされている[6]。問題意識の喚起には、経験や世界の大部分が社会的に構成されたものと見なされるべきだといった包括的な主張を展開するやり方と、ある特定の事柄Xが社会的に構成されたというように、主題をより限定した局所的な主張を展開するやり方がある。後者は、ある特定の事柄(ex. 「著者」「義兄弟」「ジェンダー」など)についての問題意識を喚起するという明確な目標をもっており、またそれぞれの主張同士は原理的に互いに独立な仕方で立論されている。本書で扱われるのは、ほとんど、局所的な主張の方であり、それゆえ、「何が社会的に構成されるのか」を問うことから始める。


1. 3 不可避性に抗して—Against inevitability—

・社会構成主義は一般的に社会の現状に対して批判的である
・出発点にあるのは次のような主張である:
(1)「Xの存在や性格はモノの本性により決定されているわけではない」[p.6-7]
 =「Xは不可避的なものではない」
  「Xを存在せしめたり、今日あるように形成したのは社会的出来事、力、歴史であり
   これらはすべて違ったあり方をとることが十分可能であった」
・ここから多くの社会的構成論は、次のような主張へ進む
(2) 現状に対する否定的評価、体制批判
 (「Xの今日のありようは、まったくもって悪いものである」)
(3) 改良
 (「もしXが根絶されるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれの
   生活はよりましなものになるだろう)


1. 4 ジェンダー—Gender—

・Xの社会的構成を論じる全ての論者が(2)や(3)の主張まで進むわけではない—体制批判的立場へのコミットメントの度合は様々であり、後に6段階の区別を導入する(1. 11)。ここではコミットメントのグラデーションについて具体的なイメージを掴むためにフェミニストによる「構成」という観念の使用に注目し、ジェンダー(X)の社会的構成を主張するフェミニスト間の理論的立場の相違を具体的に記述する。

Scheman(1993)の機能主義的立場
:ジェンダーというカテゴリが社会の中である目的を果たす機能をもつ。その目的はある集団のメンバーの特定の利益に奉仕し、集団の誰もその目的に気付いていない(=イデオロギー的)
→ジェンダーが社会的に構成されていると言う時、社会的構成物としてのジェンダーは「女性は本質的に、つまりその本性において、男性に支配される存在である」という見方をうみだす機能をもつことを暴く点に真意がある[p.8]。 

Butler(1990)のジェンダー論
:「パフォーマンス」の概念により、ジェンダーが生物学的性のあり方に付け加えられる社会的構成物であるという考えを斥ける。生物学的性差もジェンダー同様に文化的に構成されている。
→「与えられた性」(性とは生理学的事実であり思考に先立つ所与である)という観念自体をわれわれがいかにして獲得してきたかをも問題とする。
→「言説から独立なものとしての性」なる考えをうみだし、そうすることで「性が言説によりうみだされるプロセス」自体をも覆い隠してきた男女間の権力関係を暴くために、ジェンダー概念の再定義を問う。
 
:Scheman=「改良主義的な」構成主義的立場
 Butler=「反抗的な」社会的構成主義の立場(構成概念への批判的見解)
(Witting=「革命的な」構成主義;性やジェンダーについてのすべてのカテゴリーの放棄)


1. 5 女性難民—Woman Refugees—

・ジェンダーが社会的構成物として語られる時、具体的に「何が」構成されたと言われているのか?—個人か、ジェンダーというカテゴリーか、身体か、魂か、概念か、コーディングか、主観性か?[p.9]。
構成物の候補のリストはまだまだ続く。ここでより問題が少なそうな「女性難民」の構成に注目する。
・女性難民の社会的構成についての議論(Moussa 1992)では、先ず初めに「女性難民」というコーディング、つまり分類の仕方が構成物であるとされる[p.10]。ムーサは、女性難民という観念をあたかも人類の一種、一つの生物種のように扱う。そのうえで、そのような分類の仕方が様々な社会的要因(社会的出来事、難民登録制度、ソーシャルワーカー、当の女性たちの活動etc.)の所産として論じられる。ムーサは、女性難民という「種」の社会的構成を論じる。そこで論じられるのは、女性難民そのものの構成ではなく、女性難民という「観念」の構成である。


1. 6 マトリクスの中の観念—Ideas in Their Matrices—

・だが、何が構成物であり、何がそうでないかを区別できる概念装置として、「観念」という表現は不明瞭である。

 「観念」...ここでは公共的な場面に登場しそこで提案、批判されたり、賛同、反駁される
      社会的な状況=「マトリクス」の中に置かれ、形成されるものとして捉える
 「マトリクス」...「女性難民」の例でいうと、さまざまな社会機関、論客、記事、手続き
         などからなる一種の複合体。さらに、そこには人びとに対し実質的影響
         を及ぼす物質的下部構造が含まれる。

観念や分類はある何らかのマトリクスの中でのみ一定の社会的作用を及ぼす[p.11]。しかし、ここでは、あえてマトリクスよりも、ハッキングが「観念」と呼ぶもの、つまり人びとを女性難民としてくくる分類法、ないしはそのように括られた人びとからなる「種」の方を強調する。
:Xの社会的構成というタイトルを付けられた著作で、社会的に構成されたと言われているのはほとんどの場合、Xという観念(一定のマトリクスの中にあるそれ)であることが分かる。そして、このように社会的構成物として理解された観念こそが問題である。

観念や分類法、ないし種が重要であるのは、このような分類法や観念を通じて、マトリクスがある特定の女性(人びと)に影響を及ぼすためである
 ex. ある女性はカナダに滞留するために一人の女性難民にならねばならず、認定されるために
   どのような特徴を身につけるべきか、生活を送るべきかを知るに至る。そして実際に
   その生活を送るうち、自らを生活に適応させ、ある種類の人間=女性難民になる。
   すると、女性難民個々人やその人の経験は女性難民という分類法を取り囲むマトリクス
   のなかで構成されると言うことも意味を持つようになる。

・「何が社会的に構成されるのか」という問いに答えることの重要性
変数Xをみたす構成物は、女性難民の例においては、直接的には個人(個々の女性難民)ではなく、Xとは何よりもまず、人びとが属する一つの種としての女性難民であり、人びとを女性難民とする分類法そのものであり、その中で分類が行われるマトリクスである。そしてあくまでそのように分類された結果として、個々の女性や彼女らの経験までもが変えられる。
 女性難民の社会的構成として意味されることが、家を捨てて逃げてきた女性たちを取り巻く母国の社会情勢や社会環境(あるいは社会過程)の産物であることに過ぎないなら、あまりに自明すぎて、わざわざ構成という言葉で表現するまでもない。一方、たとえばカナダで、人びとを「女性難民」としてくくる分類の仕方が不可避的なものに見えるという現状があるからこそ、その分類法が不可避的というにはほど遠いと指摘することが意味を持つ。そして、その上でまた、このような偶発的な性質をもつ分類の仕方と、それが埋め込まれるマトリックスが、人びと(女性難民)の何人かの自己認識、経験、行為の仕方を変えると主張することも可能になる。それゆえ、このような間接的な仕方で、人びとが分類法により実質的な影響を被り、また、女性難民個々人もある種の人間として社会的に構成される。


1. 7 一つの前提条件—A Precondition—

・「Xが存在する必然性はなかった」というテーゼ(1)が、いかにしてXについての社会構成論のための舞台を設定しているかを考えてみよう[12]。既に指摘されたように(1. 6)、そもそも、もし「Xが社会情勢の偶発的な産物である」ことが周知の事実だとするなら、Xが社会的構成物であると指摘することには何の意味もない。逃亡中の女性たちは社会的出来事の一つの結果として、入国カウンターの前に辿りつくのであり、そこで彼女らが(女性難民として)社会的に構成されていることは皆知っている。そこでは社会的構成の主張は冗長なだけである。
 
・Xが社会的に構成されたと主張することが意味を持つのは、次のことが見出される場合だけである。

(0)現状では、Xは自明のこととされており、不可避の事柄のように思える

・テーゼ(0)はXそのものについての前提ではない。それはXについての社会的構成を論じる際に、成り立っていなければならない前提条件である。換言すると、テーゼ(0)が成り立っていない場合、「Xは社会的に構成された」と言うことには何の意味もない

以上から、ハッキングは対象と観念の区別を強調する。観念の構成が焦点化されるのは、Xについての社会的構成を主張することが意味を持つのが、そこで観念の構成が論じられるときに限るためである。財政赤字や経済が社会的プロセスの結果として構成されることは言うまでもなく、それを社会的構成とわざわざ呼ぶのはナンセンスである。社会構成主義の議論の出発点=テーゼ(0)は、財政赤字や経済といった対象については成り立たない。

「現在のわれわれの経済や財政赤字は、明らかに不可避ではなく、一連の歴史的な出来事を踏まえた偶然の産物に過ぎないためである。それとは対照的に、テーゼ(0)は、経済や財政赤字という「観念」に当てはまる。不可避的に思えるのは、これらの観念と、それにまつわる様々なニュアンスなのである」[14]。

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〔諸トピック—'X': the self, race, & emotion〕

1. 8 自己—The Self—

(略)テーゼ(0)と自己の(社会的)構成論—哲学的議論—

1. 9 本質主義—人種を例として—Essentialism, about race, for example—

・「Xの社会的構成」の議論の出発点となる前提/テーゼ(0)を一段強くすると本質主義にいきつく。ハッキングは、社会構成主義の諸テーゼがしばしば「Xは本質的なものである」とか「Xは一定の本質を持つ」といった、単に「Xは不可避である」というものよりも強い主張を論駁するために提出されていると指摘する(ex. 人種本質主義—社会構成主義)[16]。

・本質に関するハッキングの哲学的立場は、本質なる観念そのものに対し懐疑的なJ. ロックやJ. S. ミルの立場を継ぐものである。それゆえ、本質主義の問題も、テーゼ(0)と(1)で提起された「不可避性」というより弱い抱括的概念により論じることができるという見解が提示される[17]。

1. 10 感情—Emotions—
 
・「感情」もまた議論の別れるトピックである[18]。一方で、個々の文化の相違を問わず人間に基本的に備わっている感情があり、感情が人類に普遍的であるという立場がある。それに対して、感情が社会的に構成されているという主張がなされる。だが、感情の社会的構成論では、字義通りの意味で「構成されたもの」については、実は何も語られていない。たとえば、そこで論じられる「構成物」は感情という観念ではなく、感情そのもの(「嘆き」)であり、「社会的構成物」は「普遍的ではない事柄」とか「汎文化的な人間本性には属さない事柄」etcといったことを意味する符牒に過ぎない。構成物について実質的に何も語られていない以上、(これまで述べてきたことから言えば)感情についての社会構成主義の主張を、構成をキーワードとする文脈で展開することが最善かどうか、明らかではない[19]。

・だが、構成という用語を使わないとしても、議論の出発点としてのテーゼ(0)は有効であり続ける。「現状においては、感情なるものは当然視されている、言い換えると、感情や、われわれによるその表現は、不可避的なものであるように思える」と感じたことが、感情に対する構成主義者たちの議論の出発点となっている。

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1. 11 コミットメントの濃淡—Grades of Commitment—

大雑把に言って、先述のテーゼ(1)(2)(3)を受け止める度合により、構成主義へのコミットメントの仕方にはグラデーションが生まれる。
:(1)「Xは不可避ではない」、(2)「Xは悪いものである」、(3)「Xがなければ、世界はそのぶん、よりましになる」(1. 3)

・構成主義へのコミットメントの6つ段階[19-21]
  
         歴史的
        アイロニカル
    改良主義的     暴露的
         反抗的
         革命的