フィナーレとは演目全体の中でみればそれほど時間を取るものではない。長くても1/3程度であろう。しかしながら、その存在感は圧倒的だ。それまでのものが大きく霞んでしまう。物語を語るときには大抵フィナーレを語るし、フィナーレの質だけでそれを鑑賞するか否か決める人も数多くいる。圧倒的で、先天的、決して叶わない才能。星は天高く煌めくのみでそこに手が届くことはない。

 さてついにフィナーレである。金曜日「生きる目的」とは「死への恐怖の克服」であることを述べた。しかし、あまりに抽象的に過ぎれば、その行為をより踏み込んで考えていく必要があるであろう。
 「死への恐怖の克服」。それは生が、争い続けた死を受け入れる気持ちをつくることである。死をもはや恐怖の対象としてはみない。しかしここで大事なのは、恐怖と畏れは意味が大きく異なる。恐怖を克服したとて畏れの感情は消えることがない。この一点において、死の恐怖が克服された状態と、死を積極的に望む状態には長江よりも広き断絶があるのである。
 さて、謎かけである。「生きる目的」たる「死への恐怖の克服」を達成されたとき、彼は「生きている」のであろうか。意地悪い聞き方をした。すなわち、私は、「死への恐怖の克服」は、死の瞬間まで達成されざるべきものだと考えているのだ。
 初日の話を思い出して欲しい、人間皆が普遍的にもつ「生きる目的」を見出すことが、この旅路の始まりであった。ということは、「生きる目的」を失った彼は最早人間たり得ない。それは人間を超越してしまった、「超人」である。

 さりとて「超人」というと凄まじく見栄えが良い。とすればこそ人間が「超人」たることはむしろ目指すべき、歓迎すべきことではないであろうかと思う人も多かろう。その正論に対して果敢に立ち向かう前に、まずは具体的な「超人」を考えよう。

 今回「超人」を見出すのは容易である。というのも、すなわち「死への恐怖を克服した彼」こそが「超人」であることがわかっているからである。私が思うその彼を列挙すれば、護国の花となるための決死行に散っていった特攻隊員達、法を遵守して死んでいった山口良忠判事、あるいは独裁政権に立ち向かい自らの身を燃やし絶えたチベットやアフリカの方々、教義に身を捧げたテロリスト、こういった所であろうか。嗚呼、なんと美しく賞賛されるべき存在であろうか、そして、なんと恐ろしく近寄るべきではない存在であろうか。
 
論は人間と「超人」の話へと進む。しかし、今日も長くなったのでここで切る。土日は気ままに縛られず過ごすのが良いと、言い訳しておく。