小説や歌謡曲の歌詞などのなかに、「もう分かってしまった」「自分の人生は・・・になるだろう」といったタイプの、「人生を左右するような非常に大きな事柄について、年齢が比較的低い時期に、直観的に了解してしまう」といった感覚を抱くことが描写されているのを目にすることがある。
日常生活だとそんな文言を目にしたりしても「何を自意識過剰なことを言っているのか」くらいにしか思わないが、その小説なり楽曲なりに没入していると、「まさにその通りだ」という感じを覚えてしまうこともある。
実際、日常生活のなかでも、人生の節目節目で、「自分はもう・・・することはないだろう」みたいなことを感じるのは希ではない。たとえばいまは卒業式シーズンだが、卒業に際して、「自分はもうこんなピュアな時間を過ごすことはないだろう」みたいに思うのは、むしろ自然なことではないか、とさえ思う。
こうしたタイプの直観は、冷静に考えれば単なる思い込みでしかないのだし、ほとんどの場合は、そうした感覚を持ったことさえ忘れてしまうので、特に害があるわけではない。また、その内容が、喜怒哀楽にかかわらずどのような感情と結びついたものであれ、「こんな気持ちには二度とならないだろう」と感じたとしても、客観的に「歴史は繰り返さない」わけだし、「まあ同じ経験を2回繰り返すこともないしね」というくらいのものかもしれない。
ただ、一般性のありそうな形でまとめれば、ある種の喪失感(取り戻せない過去)、ないしは絶望感(未来に対する)、そうしたものに結びついた達観ではあり、個人的な経験や時代背景などを超越した、ある種の真理をつかみ取った、という気がしている、というのも本当である。各人の事情をすべて超越して、人間存在の本質にかかわるある種の真理に肉薄したという感じを持つことは確かにある。人生の深淵に触れた、みたいな。自分あるいは自分以外の誰かの人生が左右されたような場面であれば、なおさらのことだ。
こうした感覚を、人間はなぜ抱いてしまうのだろう。そしてそのことには、どのような意味があるのだろう。人生にとって無意味なものなら、そんな感覚は「余計なもの」でしかないことになる。しかし、それじたいは「余計なもの」でしかなくても、そのようなものを抱く仕組みが人間に備わっているのは事実であるから、何らかの背景はあってしかるべきであろう。
結論があるわけではないのでそろそろやめるが、上記のことは、たとえば哲学・思想や宗教の起源といったものにアプローチする一つの道筋になるのではないか、そんなことを感じている次第である。