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マジカルアイテムショップ

Magic of Elements ~ 魔法道具に集う精霊の調べ ~
期間:6月1日(土)~6月23日(日) 火・水は店休日
場所:不思議かわいい雑貨店 アランデル

2月25日より、アランデルさんにて、My Little Secret Spells ~秘密のおまじない~ イベントを開催いたします。

 

 

 

 

今回も、魔術系の道具や、占い道具、海外の雑貨などをご用意しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

また、今回は、対象商品をお買い上げいただいたお客様に「魔法道具の手引き」をプレゼントしております。

 

「こういう道具って、どうつかうの?」という方に、魔術道具の用途おけるアイデアをご紹介いたします。

 

 

 

今回は会期が長いので、第二弾、第三弾と、企画を予定しております。

 

 

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

12/17より、不思議かわいい雑貨店アランデルさんにて、Xmas & 新年イベント

 Jewel Xmas & Bright New Year が開催しております。

 

 

こちらのイベントでは、鉱物・鉱石・結晶・宝石などのイメージで「耀き」を感じさせるものがテーマとなっております。

 

 

私からは、海外の雑貨や、作家さんの作品をいくつかセレクトいたしましております。

 

 

 

クリスタル(ガラス)ポンドのスプーン
ウィッチスプーンは、植物や鉱物の魔法において混ぜる時に使用します。
「異質なものを混ぜる」そして「変化・変容を起こす」ということが魔法でもあります。
「混ぜる」(渦を巻く)とき、植物や鉱物に想いを寄せ、生命や自然と宇宙というあらゆる存在に感謝しましょう。
その心が、善き方向の変化と変容に導いてくれるでしょう。

 

 

 

ミニアサメイ
長さ20cmのサイズです。
祭壇道具として、もしくは、ペーパーナイフやかんざしとしてもお使いいただけます。
アサメイの販売は少ないので、この機会にぜひいかがでしょうか。

 

 

 

原石を使ったミニワンド

こちらのストーンワンドは、研磨されていない天然原石の素材をそのまま使ったものになります。
魔術には、磨かれて形づけられた石ほど魔力が強力になるという考えと、
できるだけ手を加えない素材を生かしたほうが魔力が宿っているという相反する考えがあります。
ヒーリングやナチュラル系のマジックの素材としていかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

ミニチャリス

祭壇を彩るチャリスは水のエレメントを迎え入れます。
この度は、あらゆる祭壇に合いそうな、いろんなカラーのチャリスをご用意いたしました。
ミニチャリスなのでドールに合わせても良さそうなサイズかなと思います。

 

 

その他、魔法シンボルと合わせた天然石も販売しております。

 

 

 

この機会のどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

12/17より、不思議かわいい雑貨店アランデルさんにて、Xmas & 新年イベント

 Jewel Xmas & Bright New Year が開催しております。

 

 

こちらのイベントでは、鉱物・鉱石・結晶・宝石などのイメージで「耀き」を感じさせるものがテーマとなっております。

 

 

私からは、海外の雑貨や、作家さんの作品をいくつかセレクトいたしました。

 

 

まずはこちら、アメリカ アリゾナ州のマジカルクラフト作家さんの作品になります。

 

 

 

 

SAS-1  海の女神 人魚の杖
オルソセラスの化石と天然のヒトデで作られた人魚の杖です。
化石は移行、変革、個人の成長と探求を支援し、変化のプロセスを理解するのに役立ちます。感覚を開花させ能力を引き出すツールになるでしょう。

 

 

 

 

SAS-2  海の魔女アートワンド
ブロンザイト アンモナイト ラリマー ラブラドライト オルソセラス ウニの棘 天然貝殻 で作られたワンドです。
個人を支援し革新的な力を受け入れるのに役立つワンドです。


 

 

SAS-3  アートヴィジョンワンド
占い師やヒーラー向けの特別な杖。この水晶は結晶内にいくつかの虹が見える視覚パターンをもたらします。空想や瞑想のためにお使いください

 

 

 

 

SAS-4 クリスタルシャーマンワンド
緑色の山が折り重なるようなガーデンクォーツクリスタルで作られてます。エネルギーのバランスをとる、お守りとしてこちらのクリスタルシャーマンワンドは作られてます。

 

 

 

 

SAS-5 シャーマニックトーテム
アンモナイト モス瑪瑙 カーネリアン瑪瑙 天然貝殻 ウニの化石 アワビからできています。ヒーリングやお守りのツールとして使用されます。

 

 

 

 

SAS-6 ドラゴンストーンマジック
心の作用を落ち着かせるセブダリアンストーンに石英ピラミッド、そしてドラゴンが彩られてます。ヒーリングにおいて精神的なサポートの働きをもたらす作品です。
 

アランデルさん店頭のみの販売となっております。

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

占いは、全く相手の情報もない場合、当てることができないといえます。

「当てているかのように感じさせる」のかは何らかの誘導(力)・印象(形)・意識改革(構造変化)が関与しているからだと思えてしまう。

それらの作用があって、占いは「当たっていると感じることができるもの」ともいえるかもしれません。

 

占い師はホロスコープや命式を使うことで、そこに現れる特徴的な印象を把握することはできます。

だけれども、その特徴的な面がどう作用しているのかはホロスコープの本人と話をしてみないとわからないのです。

 

「ホロスコープ内において、出生時間の水星の位置に問題がありそうだ。

これは知力の弱さか、神経面の弱さに作用しているのだろうか?

いや、知力や言語能力は一般人とさほど劣らないにしても、関与したがる知識欲が低俗な部分に作用している場合、凶意を引き出す。

水星は、知識・言語・神経に作用し、言語能力、勉強能力、そして仕事と関係がある。

今、運行している天王星の位置は、出生図の水星に凶作用を及ぼしそうだ。

仕事面ではうまく立ち回れないかもしれない。

さて…いま、この人は何の問題を抱えているのだろう?」

 

このくらいの推理しかできないのが占星術なのです。

 

そこで、占星術師から相談者に問題を問う場合はこうなります。

「あなたのホロスコープを拝見すると、今、出生図の水星に対して、凶作用を引き出す惑星が作用しています。

この作用は2021年12月から、2023年3月まで影響力があると考えられます。

2021年末あたりから今までに何かしらの事故・病気・トラブルがありましたか」

「そうですね。2022年5月あたりに、仕事上で大きなトラブルがあり、それが原因で3ヶ月間、鬱でした。それから回復したものの、たまに最近鬱っぽくなります」

「なるほど、そうですか。2022年5月から3ヶ月間、鬱を発症したという場合、2018年あたりも、星の悪さが出そうです」

「2018年…どうだっけな?あ、それは、前の仕事を辞めた時です。その時の職場の上司と合わなくて、鬱になりそうだったので仕事を辞めたのです」

 

というように「占い師は、相談者に、気になる時期や性格上、気になる面」を問う。

すると「相手のほうが心当たりのあることを語りだす」のです。

 

これは、なんとなく話術に見えると思います。

だけれども、ここで批判的な人間に「ほら、占いなんて話術でしょう?」とは言われたくないのです。

なぜなら「問いを発したきっかけは占いのロジック」だからです。

 

ここでは「占い師は星の引き出す印象と、現実面の答え合わせをしようとしている」

そして、相談者も占い師に対して協力的に働きかけようとしている。

しかし、占いを勉強したことの無い人で、占いに対して批判的な人間の解釈では「占い師は星の引き出す印象と、現実面の答え合わせをしようとしている」という現象を

「話術を使って当てに入っている」という印象で受け止めてしまうかもしれないです。

性格上の認識の違い、知識の構造の違い、意図における方向性の違いは「同じ現象でも解釈が異なる」ともいえそうです。

 

相談者というのは、占い師に対して協力的に働きかける。

なぜなら、占い師に自分を委ねているから。

なので占い師に対して「星の作用の答え合わせに対して積極的に答えてくれる」ともいえます。

思い込みが強いと、自分で答えながら、占いが当たっていると思い込んでしまう。

そして占いや占い師が自分まで助けるであろうという過大評価まで期待してしまうこともあるのです。

(昔、私はそう思ってました)

その感覚、その印象は「占いは当たるもの」とか「星は自分のことを知っている」とかいう「行き過ぎた解釈」として受け止められしまうこともある。

 

「星の作用」に対して「現実の現象として出たもの」という相互関係は「惑星の動きが人の心理に作用する」という印象として受け止められる。

しかし「惑星の動きが人の心理に作用する」という印象が言葉の分別として曖昧になると「占いが存在する」という印象として受け入れられる。

やがて「占いが存在する」という言葉は「占いは当たる」という言葉に置き換わってしまう。

 

私は「当たる占い」という言葉をもう少し詳細な言葉として表現したい。

「惑星の動きが人の心理に作用する」という言葉に限らずいろいろな形で。

 

「人は、出生時に空気を吸った瞬間、天地の作用(地磁気や天体の相互作用の力影響)を体内が記憶する。

その体内の記憶に基づいた力が、動きを作り出し、やがてその人らしい形を作り出していく」とか。

 

占いが当たるように感じるのは、ぼんやりした形に対して問いを発し、その問いに対し、形を輪郭あるものとして認識させる力があるからかもしれない。

 

「出生時における体内記憶を基盤にした肉体は、時間経て、社会環境を経て、個人的な好みに偏り、その人の体型を作り出したり、体質を作り出したりしていく」

この原理は、体型や体質にスポットを当てて、占いのロジックを基盤に証明することもできる。

 

「しかし、先天的に生まれの環境が良い(家柄が医者で健康管理にしっかりしている)とか、

後天的に育ちの環境が良い(友人や先生という身近な存在に、健康に対して管理能力の高い人が存在し、自身の環境改善に働きかけることがある)となると

和解案の中間点を考えるようになり、その人の持つ偏った特徴的な体型や体質の個性をそこまで引き出すことがなく、問題点として浮上しないことがある」ともいえる。

 

ある意味、占星術は和解案の中間点の提案として働くことができるのではないかと、私は考えているのです。

 

9月3日より、不思議かわいい雑貨店アランデルさんにて「魔法学校の文具店」が開催されます。

 

今回はイベントにつきまして、いくつかの商品を出品いたしておりますので、ご紹介いたします。

 

 

皮製ノート

 

 

スタンプ

 

こちらは粘着性になっております。

アクリルブロックや、プラステックプレートなどに貼り付けて繰り返しお使いいただけます。

(アクリルブロックは100円均一などで販売しています)

 

 

 

シーリングスタンプ

 

魔法シンボルや、ファンタジー系な柄を取り揃えております。

 

 

 

 

ノートの作成や、クラフトに使える、シールや紙素材も取り揃えました。

 

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

只今、アランデルさんにて「星々と魔法の世界」を開催致しております。

 

 

粘土製オブジェ

 

 

 

ノート各種

 

 

天球儀

 

 

望遠鏡

 

 

クラフト資材として、こちらは天体のカボション

 

 

祭壇道具

 

 

コレクター品も出品いたしております。

 

 

 

店頭販売のものが多いですが、一部、通販の取り扱いもございます。

 

 

 

 

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

ファミレスに行きました。

そこでランチメニューのハンバーグセットとドリンクバーを注文しました。

私は、最初に「アップルシナモンティー」を飲むことにしました。

ホットなので、ティーパックにお湯を注ぎます。

私はホットアップルテシナモンティーを作ったあと、使ったティーパックを捨てようとして考えました。

しかし、私はそこで思いとどまりました。

「まだ、2~3回はこのパックが使える」

私はティーパックを捨てないことにしました。

そして私はアップルシナモンティーを飲み終えたあと、お湯を注ぎ、さきほど使ったアップルシナモンティーのパックを使いました。

私は1つのティーパックで合計3杯のアップルシナモンティーを作りました。

さて、次は何を飲もうか。

テーブルの上には、氷水が置いてありました。

これは、店の席についたときにウエイトレスさんが持ってきたものです。

「出された水を飲まないで残してしまうのはおかしい」と私は考えました。

水を飲みほしてから余裕があれば、ドリンクバーのおかわりをしようと思いました。

ランチのハンバーグセットを食べながら水を飲みました。

水のほとんどを飲んだとき、ウエイトレスさんが来て「水をお注ぎします」と言って、グラスに水を注ごうとしました。

私は「ドリンクバーを注文しておりますのでお水はいらないです。ありがとうございます」とお断りしました。

そのあと、私はデザートを注文し、お手洗いに行きました。

テーブルに戻ると、追加で注文したミニコーヒーゼリーと、氷水が置いてありました。

ファミレスの仕事(に含まれる儀礼・礼儀)には「お客が水を飲もうが飲むまいが、氷水を出す」というものなのです。

それは、意味としてはわかるんです。

ですが「常に氷水が残る」という「数が合わないが成立する」という社会構造がおかしく感じてしまいます。

私が現象に対して1:1の割り切れる法則を使うと「注がれた水を飲む」という現象に至り続けるのです。

 

あなたは「水を残して他ドリンクを飲む」ということについてどう思いますか?

人間は好き勝手自由が許され、好きなモノだけを選択すればいいという生き方についてどう考えますか?

 

今までの私は「水はそのまま残し、ドリンクバーを注文し、自分の好きなドリンクを飲めるだけ飲む」ということをしておりました。

しかし、それはどういうことか。

「自分は水を無駄にしている」ともいえてしまうのです。

また「ドリンクバーで好きな飲み物を好きなだけ飲み放題」というシステムは「欲張りによって調子を崩す」とも考えられます。

ドリンクバーで飲み物をたくさん注文した結果、いつも以上に水分やカフェインを摂り過ぎてお腹がゆるくなったこともあります。

自由が許されれば許されるほど、権利を使えば使うほど、個人や社会に不調をきたすことが考えられるのです。

 

そう考えると「出された水だけを飲む」か「飲みたいドリンクを注文するか(そして最後に水を飲み干す)」のどちらかでいいと思いました。

いろんな意味で節度が大事だと思うんです。

節度ある力と形は、個人や社会も不調をきたさない。

 

友人の中には「いつも仕事とか人付き合いとかで疲れているんで、そのくらいの自由くらいは自分に対して許してあげてもいいんじゃないか」と言います。

「水を残す」というくらい「大した問題にもならないし、誰でもやっていると思うし、社会に迷惑をかけているとは思えない」と主張します。

「もっと迷惑な人間に注目した方がいいのではないか?例えば、ドリンクバーを注文して、ドリンクを残す人とか…」とさらに悪い人間をあぶり出し、

「自分のやっていることは悪いことではない」と主張します。

 

また、そこから出てくる悪いと言われる人間にも言い分があるんです。

「なぜ、自分が”残し”をするのかというと”不味いものを出す”という店の姿勢に対して教育しているのだ」と言います。

そういう人間は「表現の自由」という権利を使い「言葉もしくは態度で不快感を示す」ということがあります。

「店はお客の言葉や態度や残しのあった現実を見て、勉強するものだ」と言います。

もっと悪いのは「何も考える能力の無い人間だ。その時の気分で食事やドリンクを注文し、食べれない、自分の口に合わないと思ったら残す。

教育目的の為でもなく、自分のわがまましでしか動かない、まるで何も考えていない人間はもっと悪い」

 

悪いと言われた人間から出てくる悪いと言われる人間の主張もあるのです。

「この食事には私がお金を支払っている。

お金を支払う人間には支配権があり、その支配権は絶対たるものであって誰からも侵害されることはない。

いいじゃないか。そういう人間がいるからこそ、経済活動が活発になるんだ。

ある意味、経済成長のためにはそういう人間が必要なのだ。

考えていない、考えられないわけではない。

そんな小さなことでウジウジ考えることなんてめんどくさいだけなんだ」

 

どの人間の言い分も正しいといえば正しいといえそうですし、わかるといえばわかるかもしれないです。

 

そこでいろんな人の話を聞いて、自分の位置はどういう立場で物事を考えているだとかを考え直してみてはと思います。

 

 

私としての意見は「ドリンクバーというシステムは店の品位を下げる」と思います。

「おしゃべりという目的の為に店を使う」という中途半端な人間が増え、目的たる「食事」についての集中力を欠きます。

「集中力を欠く」というのは、生命力の低下であります。

しかし、生命力を低下させることで「品位の低い存在が数多く集まる」ということができてしまうのであります。

「問題は品質ではなく量」という価値観からすると「お金にしたいのでお金になるシステムを使う」ということを考えるともいえます。

「プライドを下げて、大衆店にしたほうがいい」という価値観もあります。

社会が混乱し「その食事会は、食事を目的にしているのかおしゃべりを目的にしているのかよくわからなくなった」という時に

「大衆店に飲み放題システムができた」ともいえるかもしれないです。

「食事に対しての品位は下げたくないという店にはドリンクバーは置かれない」ともいえるでしょう。

どっちの道を選んでもいいかもしれないですが、何を選ぶにしても節度というものが大事なんです。

 

昔の日本は水1杯にせよ、無駄にしなかったでしょう。

食事の場でダラダラと世間話をすることもなかったでしょう。

そういう意味で、昔の日本は今の時代より品位が高く、数・形の認識が現代よりも強く知覚されていたのだと思います。

現代の日本は「飲食店に入ると水が自動的に出る」のが当たり前で、その現象に対してそれ以上を考えることができない。

それは「テーブルに出された1杯の水がある」ということに対してほとんど無自覚であるともいえるでしょう。

さらにいえば「それを飲まなければその水は捨てられてしまう(現実に殺しを働かせる)」という事実関係に対しても無自覚なのです。

「自動運動化されて無自覚になり、感じなくなる」というマジックの中に我々の生活はあるのです。

 

私はウィッチクラフトに興味があります。

なので、ウィッチクラフトの理論を使って現象を観察します。

「グラス(聖杯)に水が湛えられ、その水が全く飲まれもせず、捨てられる現象」というのは「水のエレメントを殺す」という「神への冒涜である」という象として捉えます。

この社会現象においては「祭壇=ファミレス」として置き換えて考えられます。

「水を捨てる(殺す)」という「社会に向けるショー」は「生贄(水)を殺す」というショーに置き換わります。

わたしは水のエレメントの亡霊(理性の元型たる数霊)をこの文書により蘇らせます。

わたしの意思はわたしの中にあると同時に、水のエレメントの中にあるともいえます。

別の言い方をすれば、水のエレメントは個人であると同時に社会でもあるのです。

 

この文書を読む人間の中には飲食店の経営者がいるかもしれないです。

「この日本社会の風潮において、席についてお客様に水を出さないわけにはいかない」という人もいるでしょう。

「そうしたいのならば、そうしてもいい」のです。

 

「汝の欲することをせよ。それが汝の法とならん。ただし、他の誰にも迷惑をかけてはならぬ」という確言の中に法が存在するのです。

 

もし、お客様が水を残したら「その水を洗い物に使う」とか「花壇に水を撒く」というような手段を使ったらいいのです。

「存在を捨てたり殺したりしない」を選ぶと「存在を何かの役割にバトンタッチする」という「死ではなく再生」に繋がるのです。

創意工夫した結果が生命になり続ける。

さらにウィッチらしいウィッチは「水に対してその都度お礼を言う」のです。

ひとつひとつの行為の始まりと終わりに儀礼が含まれるのです。

何をやっても儀式儀礼っぽくなってしまうのが、宗教がまだ生きている社会と人間のすることなのです。

 

我々の社会は、宗教心のようなものはもはやほぼ失われ「お金の力でしか生きていけない」と思い込んでいるような社会でもあります。

「お金の力でしか生きていけない」ゆえに考えられる「社会システム」にもまた「死または再生の法」があるのです。

 

個人意思によって自由を行使できる社会ほど見えないもの、感じられないものもある。

その人の選ぶ自由によって、返ってくる拘束があるのです。

 

 

自分の考える「素敵な人」「好きな人」「嫌いな人」「目上の人」「厳しい人」「知らない他人」にはなかなか話しかけにくいのではないかと考えられるのではないでしょうか。

「一体、何を話したらいいのかわからない」とのは「普通の友人に話しかける内容では吊り合わないような気がする」ような気配だからではないかと考えます。

 

では「普通の友人」とはどういう話をしているのかについてです。

たぶん「分別が曖昧なぼんやりした話について、好みを基準に話をしている」のではないかと思います。

 

一方「分別が曖昧なぼんやりした話について、好みを基準に話をしている」がまるで通用しないのが「嫌いな人」「目上の人」「厳しい人」「知らない他人」かもしれないです。

「嫌いな人」「目上の人」「厳しい人」「知らない他人」と意思疎通を働かせるには「分別が曖昧なぼんやりした話について、好みを基準に話をする」のではなく

「できるだけ分別意識を働かせ、自分の好みではなく、物質的、現実的な面を考えた言葉を発する」と思います。

 

ではここで「分別が曖昧なぼんやりした話について、好みを基準に話をする」という人たちの会話を例に出してみましょう。

 

「S内科に通ってるんだ」

「そうなんだ」

「S内科はA内科よりいいよ。

先生が丁寧に説明してくれるし、病院も新しくて清潔だし」

「そうなんだ。内科に行くのならS内科ではなくA内科を選んだほうがいいみたいだね」

→話が早い。

話が早い人間は、他の方向性について考えることはできない。

限定的な人間の限定的な一方方向の価値観を正しい情報と信じている。

情報にそのまま便乗した結果、他の可能性を考えられず、騙されやすさがある。

 

「分別が曖昧なぼんやりした話について、悪い印象を踏み台に話を基準に話をする」という人たちの会話。

 

「S内科に通ってるんだ」

「そうなんだ」

S内科は、A内科よりいいよ。

先生が丁寧に説明してくれるし、病院も新しくて清潔だし」

「私もそう思う。

以前A内科に行ったんだけど、どこか不親切っていうか、愛想もよくないんだよね。

そういえば田中さんがA内科に行ったんだけど、腸の腫瘍を見つけられなかったみたい。

初診で”風邪じゃないですか?”みたいな話になって風邪薬を出されたみたいなんだけど、症状が回復しなかったみたいで。

他の病院に行って腸に腫瘍があったことがわかったんだよね。

きっとA内科はやぶ医者だよ。

あのとき、A先生が”では腸も検査してみましょうか”ということを言っていたら病気は早期発見できたかもしれないし」

→世間の噂話を収集するのが趣味の人の会話。

そして、噂話を比較対照して、自分の答えを作り出してしまいがち。

ここではA内科が悪く、S内科が良いという先入観があったが、他の情報を引用することによってS内科が良いという固定概念に発展していく。

そこから先は「A内科は悪く、S内科が良い」を言いふらす社会活動をしだすと考えられる。

そういう人間は「自分の偏見による評価」を基準にしており、自分と違う考え方をする人のことを嫌いになる。

自分の好きな近親者を「自分の記憶と同じ」ようにしていく。

そして自分の好きな近親者に「良い情報を教える」ことにより、自分の好きな近親者を苦しめる結果をもたらすこともある。

 

では、先ほどの話の中に、もう少し思慮分別のできる第三者を参入したらどうか?

 

「S内科に通ってるんだ」

「そうなんだ」

S内科は、A内科よりいいよ。

先生が丁寧に説明してくれるし、病院も新しくて清潔だし」

「私もそう思う。

以前A内科に行ったんだけど、どこか不親切っていうか、愛想もよくないんだよね。

そういえば田中さんがA内科に行ったんだけど、腸の腫瘍を見つけられなかったみたい。

初診で”風邪じゃないですか?”みたいな話になって風邪薬を出されたみたいなんだけど、症状が回復しなかったみたいで。

他の病院に行って腸に腫瘍があったことがわかったんだよね。

きっとA内科はやぶ医者だよ。

あのとき、A先生が”では腸も検査してみましょうか”ということを言っていたら病気は早期発見できたかもしれないし」

「しかし、そこでA内科がやぶ医者っていう断定をするのは話が早すぎるのではないかな?

病院というのは、治療以前に病気を発見することに始まるでしょう。

まずは先生は患者の話を聞く。

患者のほうが”いつから、この部分からこのような症状があり、身体全体の感じはどうだ”と詳細に話をするということだけれど、それをハッキリ言える患者がどのくらいいるのでしょうか?

”なんかここ1~2週間くらい身体がだるくて、今朝、熱をはかったら熱があったんで病院にきました”っていうようなぼんやりした情報だったらどうか?

”よくわからない”と思うんですけど。

そうなったら”よくわからない”は”風邪みたいな感じでぼんやりまとめられてしまう”かもしれないでしょう?

”とりあえず解熱剤や鎮痛剤を出しますので様子みてみましょうか”みたいな感じで。

しかし、患者のほうがもう少しはっきりした詳細な話ができればどうか。

”2週間前の○月○日の夕方から腰に重みを感じました。

波があるのですが、腰には痛みというより重たさを感じます。

腰の重くなった翌日から身体全体に倦怠感が出てきました。

熱は3日前の○月○日に37度2分の微熱があり、昨日は36度.9分、今日は37度1分です。

もともと自分は35度5分から36度くらいが平均なので、ここ2週間は36度5分から37度5分の間を行ったり来たりな状態なので、平熱より少し熱が上がってるみたいなんです。

また、自分の生活は、いつもと変わらないです。

8時から17時というデスクワークで、生活サイクルは変わりません。

夜は22時に就寝し、朝は6時起床で、このサイクルも変わらないです。

ここ最近、強いストレスを感じたとかいうこともないので、精神面も大きな変化はないと思います”というくらい詳細に自分のことを伝えてもらえれば医者も患者に対して意識を働かせることができると思います。

相手が丁寧だとこちらも丁寧になるという感じだと思います。

そういう情報があると”そうですか。どうやら一過性の風邪と決めつけられないかもしれないですね。

もしかしたら、身体のどこかに腫瘍などがあり、機能バランス異常によるだるさかもしれないですね”なんて話に発展できるかもしれないです。

そして”お通じのほうはどうですか?血が混じっていたり、緩かったり、出にくくなって便秘がちになったり、していませんか?”みたいな話になるかもしれないです。

そこから先は患者のほうに”言いたいけど言えなかった”もしくは”考えつかなかった”ということが出てくるかもしれないです。

”お通じは毎朝が基本です。しかし、そういえばここ1週間はいつもと違うというか、なんか緩いような気がしておりました”

なんて話になって”もしかしたら、腸の機能に問題があるのかもしれないですね”になり”では、腸の検査をしてみましょう”になるかもしれないです」

 

「分別が曖昧なぼんやりした話について、悪い印象を踏み台に話を基準に話をする」という人は負けず嫌いな傾向があるので聞き返すかもしれないです。

「そんな、最初から病院がいろいろ検査させてみたらいいじゃん」

「検査っていうのは”この症状がある”という証言を元に”この検査”が生まれるものでしょう。|

もし、医者の判断で”○○という病気があり得る”ということを考えてたくさんの検査させたらどうか?

病院としては検査で儲けを生み出すかもしれないよ。

ある意味、社会意識が生み出した法律は医者にぼろ儲けさせないため、患者の財産を守るために検査に関しては制限を持たせているかもしれないね。

だとすると、基準になる患者本人の証言に問題があるのでは?

しかし、夜更かしが当たり前、不規則で偏った食生活、ストレスで働かない頭を持った人間はぼんやしたことしか言えないかもしれないけど。

そうなると”どういう話を引き出すか”という医者の器量にも問題もあるかもしれないけど」

という話になって「なんとなく引き分け」「どっちが良いとか悪いとかが分別しにくい」ところから「欠けている問題に気がつく」かもしれないです。

しかし、我々は「どっちがが勝ち」というような偏った偏見から公正さを欠いており、ぼんやしりた印象で物事を考えてしまいがちなんです。

なので無駄が多く、時間がかかることをしてしまう。

そして無駄と時間の短縮を狙って「分別が曖昧なぼんやりした、偏った印象を踏み台にした話」を参考にしたりするようでもあります。

 

 

 

 

 

 

20年くらい前の話です。

電車の切符精算機の横に荷物が置いてありました。

そこには誰もいなかったので、私はちょっと様子を見ました。

様子を見たところ誰もその荷物の周辺にいなかったので、それは忘れ物であると思い、私はその荷物に手をかけました。

荷物を駅員に届けようと思ったのです。

私が荷物に手をかけたその時…

少し離れた場所から女性が「泥棒!!」と叫びました。

「私の荷物なんですよ!どうするつもりなんですか!」

どうもこうも、私は善意から荷物を届けようとしたんです。

ですが、泥棒と思い込んでいる人間からすると、私が「それは届けようと思ったんです」と言ったところで言い訳なんです。

当時、この件に関しては「酷い目に遭った」と思いました。

ですが「まぁ、相手にも悪気は無いんだし」と思えるので、そこまで不服(名誉棄損)とも思わなかったです。

 

この件に関してあなたはどう思いましたか?

 

こういう出来事に対し「自分は悪くない」という意思力が強く働くと「名誉棄損」という衝撃を受けるかもしれないです。

名誉棄損と考える人は、このネタを使い社会進出するかもしれないです。

社会進出とは「自分を中心に共感力を集める」ということでもあります。

「○○駅で自分は善意から荷物を届けようとしたのに、泥棒と間違えられた」をネタを使い友人を巻き込むことです。

社会進出をもくろんでいる人間からして最も期待するコメントは

「なんて酷い人間なんだ!君は悪くないのに。本当に気の毒だ。そういう人間、死ねばいいのに!」

…というような相手を大否定し、自分を大肯定をしてくれるものかもしれないです。

自分の最も期待するコメントを発する人間を、我々は親友や恋人と呼んでいるのかもしれないです。

 

また、そのネタを聞いてくれるのは知り合いの中の100人中10人くらいかもしれないです。

90人くらいは日々忙しくて、そういう個人的な話まで付き合う気も付き合わせる気もないかもしれないです。

親友以外の他9人の人間は「酷い人もいるもんだね~」と共感しつつも、そこまで熱く共感してくれる人はいないかもしれない。

自分としては「熱くなって共感してくれる一人の親友や恋人」というものをごひいきにしてしまうかもしれないです。

 

で、今の私の立ち位置は、微妙かな。

たとえ、あなたが社会において「名誉棄損である」と感じ、傷ついたとしても「かわいそうに…」と寄り添うのは、恋人や親友になりたい他の人に任せると思います。

私は「善意が裏切られる結果になり、お悔やみ申し上げます」というところから始まる葬式に来た坊さんみたいな役割で参加します。

 

ではここから先はTRPG方式でいってみましょうか。

 

さて、あなたは、駅にいます。

そして自動精算機の前に荷物が置いてあります。

周囲には人がいません。

あなたはどうしますか?

 

大衆の心理から考えられる行動パターン

①見て見ぬふりをする

②見て見ぬふりができない

 

①の人はここで終了です

②の人は続きます

 

見て見ぬふりのできない人間は、他人事であれども、どこか社会協力的な側面を持っていると考えられます。

では、見て見ぬふりができないあなたはどうしますか?

 

③荷物を駅員に届けることを考え、荷物を持って駅員室に行くことにする

④荷物を持って駅員室に行くこと以外を考えることにする

 

③の行動をする人間は「答えが早すぎる」と考えられます。

こういう人間は「責任感が強い」という自覚があり過ぎる傾向があると考えられます。

また「自分は責任感が強くて良い性格をしている」という自意識過剰の裏には「忘れ物は届けないといけない」というような「一つの価値観しか思いつかない」のであります。

こういうタイプの人間は「自分は社会の平均値からすると優しい人間である」と考えている反面「自分は社会人としての自覚が少ない」のであります。

ある意味ヤクザタイプの人間がしてしまいそうなものかもしれないです。

 

ヤクザタイプの反対は警察タイプでしょう。

警察タイプはどうするか?

④荷物を持って駅員室に行くこと以外を考えることにする

でしょう。

 

ヤクザタイプの人間からすると

「え?荷物が落ちてるんだから、自分がそれを持って駅員室に届けるのが当たり前だよね?っていうか、それ以外に方法なんてあるのか?」と疑問に思うかもしれないです。

 

では、ここで考えてみましょう。

 

「荷物を持って駅員室に行くこと以外を考えることにする」について、あなたはいくつ方法を思いつけますか?

 

・しばらく荷物周辺においてカバンや環境や人間の動きなどの状況を観察する

・「この荷物の持ち主の人はいますか?」「誰か荷物をお忘れではないですか?」と周囲の人間に呼び掛けたりする

・駅員を呼ぶ

 

このあたりではないかと思います。

 

「即、善と思われる行動」をしてしまう人間からすると盲点でしょう。

 

ではなぜ、荷物を触らないのか?について想像力を働かせることはできるでしょうか?

 

・荷物に爆弾や刃物などの危険物が入っているかもしれない

・事件性のある荷物の場合、指紋検出がかけられる

そのようなことが起こると、社会が自分を容疑者と怪しまざるをえない話にもなる

得体の知れないものは、自分が介入することで、社会をややこしくしたり、自分自身をややこしくしたりする

・自分が荷物を持つことで、持ち主が「正当防衛」を理由に「荷物を返せ!」と暴力をふるってくるかもしれない

 

正統派の社会人は、そういう社会常識を持つので、うかうか他人の荷物には触らないものなんです。

 

こういうディスカッションを会社や学校でしてみたらいいかもしれないです。

 

で、ここで「そうなんだよね。私は法律等にも詳しくて、社会常識を持っているからこういう場合は手を出さないんだよね」と言う人。

こういう人は「自分に害を及ぼされたくない」という潔癖すぎる都会人みたいになり①見て見ぬふりをする、という人間に含まれがちなんです。

「学校で何を勉強したか?」「世間から何を学んだか?」については「自分の財を守ること」は考えても「他人の財を守ること」を考えていないんです。

「わかりすぎるほどわかっている」という人間は自分のことばかりしか考えていないとも考えるんです。

 

となってくると、会社や学校でどういう教育を受けたかについても「自分が損しない形です」というような偏った勉強かもしれないです。

自分が損しない形を覚え続けたらどうでしょうか。

たぶん、あらゆる形の固い社会を認識し、過剰なまでもの防御策に多くの時間を費やすのかもしれないです。

自分の望み通りに、財産、個人権利などは守られて続けるかもしれないです。

そしてそういう生き方は、世間一般の現代の価値観からすると「仕事があり続けるようでいいですね」かもしれないです。

しかし、本人としては「いや…寝る時間もなく攻防について考え続けるような時間貧乏してるんです」みたいになるかも。

「多くの時間を社会の攻防について考えた一生でした」っていうのが、社会から仕事を押し付けられるエリートの実体だったりして。

 

我々の思考からすると盲点なのは「他人の財を守ること」であります。

「他人や社会の財を守る」という意識が薄れ「自分の財を増やす」という価値観を中心に考えると「会社や社会から奪えるだけ奪おう」とするもんなんです。

その偏ったヤクザみたいな価値観が多くの問題を生み、多くの問題の対処策を考え続ける警察みたいな価値観が仕事を生み続け、結果的に社会のマイナスから財が生まれ続けているのかもしれないです。

 

そのバブルみたいな現象に対しては「カバンが落ちていてもめんどくさいので放っておく」ように、多くの人間が問題としないことにしているのかもしれないです。

 

そして「他人の財を守らない人間は、自分の財すら守れないようになってしまう」ということにも我々は無自覚かもしれないです。

ちなみに、ここで言う財とはお金以外も含まれます。

財産とはお金に限定されず「大切なもの全般」に及ぶと私は考えます。

生き方が美人というものを目指してみたいと思う。

美の条件というものは、バランスなのだ。

生き方美人になるのであれば、あらゆる作法においてバランスを考えることだと思う。

 

私の働く花屋では社割がある。

それによって私たちは、定価ではなく割引きでお花を買う事ができる。

同僚らは「これが欲しい」を理由に取り置きしている人もいるし、形の良いものを選んでいる人もいる。

でも、欲しいものを買いたいのであれば、一般客と同じ位置にあるべきかなと思ってしまう。

仕事以外の時間で取り置きもせず、定価で買うほうがお客や会社としてもありがたいと思う。

 

社割を使うのであれば「品質の落ちたもの、量が多すぎて余ったものを選んでみては」と私は考える。

なぜそういうものを選ぶのかだが、割引き価格だからだ。

安い代金に見合ったものと安い代金を交換し合う。

それがバランスというものなのだと考えてしまう。

社割などの特権にあやかってもいいと思うが、もう少し全体を考えたり、礼節について考えたほうがいろんな意味で世界の時間関係を歪めないのだ。

 

今回、購入したのは、処分寸前の薔薇。

ここまで傷んでしまうと「欲しいと思えない」かもしれない。

しかし、私は花を処分することにことごとく反抗するタイプだ。

生き物としてかわいそうだ。

経済的にもったいない。

廃棄を最小限にするのが私の生き方なのだ。

 

しかし、処分寸前の花に対して魅力を引きだすのは困難だ。

「見た目が悪い」は存在の存続として大きな欠損なのだ。

やせ我慢して無理してまで付き合ういい人になるつもりはない。

いい人になるつもりはないが、少しはいい人になりたいし、この薔薇を処分するのにはかわいそうだし、会社の売り上げにも少し協力したい。

 

そんなときは「欲しいと思えてしまう理由を考える(工夫をする)」のだ。

そうしないと、この花は処分されてしまう。

私も目標とする美人な生き方ができない。

 

私は薔薇についてよく観察してみた。

この薔薇は特に香りの強い品質。

私はこの薔薇に対して「視覚を中心に考えた飾り的要素」ではなく「香りを中心に考えたリラックス的要素」においての利点を思いつくことにした。

「欲しくなる」にはややずる賢い知識になるかもしれないが「利用できる」という発想を持ってくる。

「この香りは癒される」

人間は「メリットがある」となるとたちまちプラス思考が働き、欲しくなってしまうのだ。

 

私は意味付けによって、処分寸前の薔薇がとても欲しくなった。

さらにこの薔薇に愛着を入れたいと思い「もう少し意味付けを強力にしてみよう」とも考えてみた。

能力開発に対して積極的な私は「香りによって、肉体的縛りから抜ける」という感覚的解体に挑戦してみようと思いついた。

この考えはある意味「あまりにも利己的」かもしれない。

だけれども、この大袈裟な解釈により「この薔薇をこんな安値で購入してもいいんですか?」なんていう錯覚までもが生まれてくる。

もちろん花屋にはまだまだ鮮度の良い形の良い花があって、それを割引で購入する権利もある。

だけれども、この愛着の法則(意味付け、理由付けのまじないのようなもの)により「鮮度の良い・形の良いものに見劣らず、この薔薇が他のものに劣らず素敵なものに感じてしまう」のだ。

利己心も上手に活用すれば、いいのかもしれない。

すると、社会から廃棄が減り、全体のバランスが整うのかもしれない。

 

 

家に帰って薔薇を生ける。

花瓶のかわりに牛乳瓶を使う。

「あり合わせのものを組み合わせる」

これがウィッチクラフトなのだ。

ウィッチは自然崇拝者なので、廃棄を最小限にした生き方になってしまうのだ。

あり合わせのものかもしれないが、組み合わせ次第でそれはお洒落になるのだ。

 

花を眺めていたら「この花びら、ポプリになる」ということに私は気が付いた。

「花びらを乾燥させ、ポプリを作る」という作業を思いつき「楽しそうだ」と感じる。

 

ポプリ作りという作業を恋人や子供とかと一緒にしてみたら、それはさぞかし楽しいことだろう。

「イキナリ完成したポプリを買う」のではなく「この花屋で買って家で飾ったお花」という歴史(時間)の関与するポプリなのだ。

「思い出が形や印象となって残る」なんて、それはテープレコーダーみたいだ。

 

そういう私にはここに恋人も子供もいない、ただ一人なのだ。

なので「一人で作業する」という姿勢になってしまう。

ここで「一人はさみしい」なんていうことは考えないことにする。

1人でいれる人間はなぜかモチベーションが高いのだ。

これは本に読む「錬金術師」の姿なのだ。

それは、大衆からすると意味のわからない人間に見えるかもしれない。

大衆意識からすると意味の解らない人間はきっと「テーマが違う」のだ。

錬金術師は地球に散らばった鉱物や植物と「混ざる」または「分離する」ということを考えているのだ。

錬金術師らしく、薔薇を湿から乾にする作業をしてみよう。

そして、乾の状態の薔薇のポプリを使い「あれとこれを混ぜてみようか」なんて考えてみる。

その「混ぜる」についてはハーバルマジックについて書いてあるテキストを参考にしてもいいと思うし、自分の思いつきでもいいかもしれない。

 

 

最小限の動力で、最大限の楽しさを作る。

私の愛着を持つオカルトの世界、魔法の世界はいつどこでも好奇心と遊んでいられるのだ。