ファミレスに行きました。
そこでランチメニューのハンバーグセットとドリンクバーを注文しました。
私は、最初に「アップルシナモンティー」を飲むことにしました。
ホットなので、ティーパックにお湯を注ぎます。
私はホットアップルテシナモンティーを作ったあと、使ったティーパックを捨てようとして考えました。
しかし、私はそこで思いとどまりました。
「まだ、2~3回はこのパックが使える」
私はティーパックを捨てないことにしました。
そして私はアップルシナモンティーを飲み終えたあと、お湯を注ぎ、さきほど使ったアップルシナモンティーのパックを使いました。
私は1つのティーパックで合計3杯のアップルシナモンティーを作りました。
さて、次は何を飲もうか。
テーブルの上には、氷水が置いてありました。
これは、店の席についたときにウエイトレスさんが持ってきたものです。
「出された水を飲まないで残してしまうのはおかしい」と私は考えました。
水を飲みほしてから余裕があれば、ドリンクバーのおかわりをしようと思いました。
ランチのハンバーグセットを食べながら水を飲みました。
水のほとんどを飲んだとき、ウエイトレスさんが来て「水をお注ぎします」と言って、グラスに水を注ごうとしました。
私は「ドリンクバーを注文しておりますのでお水はいらないです。ありがとうございます」とお断りしました。
そのあと、私はデザートを注文し、お手洗いに行きました。
テーブルに戻ると、追加で注文したミニコーヒーゼリーと、氷水が置いてありました。
ファミレスの仕事(に含まれる儀礼・礼儀)には「お客が水を飲もうが飲むまいが、氷水を出す」というものなのです。
それは、意味としてはわかるんです。
ですが「常に氷水が残る」という「数が合わないが成立する」という社会構造がおかしく感じてしまいます。
私が現象に対して1:1の割り切れる法則を使うと「注がれた水を飲む」という現象に至り続けるのです。
あなたは「水を残して他ドリンクを飲む」ということについてどう思いますか?
人間は好き勝手自由が許され、好きなモノだけを選択すればいいという生き方についてどう考えますか?
今までの私は「水はそのまま残し、ドリンクバーを注文し、自分の好きなドリンクを飲めるだけ飲む」ということをしておりました。
しかし、それはどういうことか。
「自分は水を無駄にしている」ともいえてしまうのです。
また「ドリンクバーで好きな飲み物を好きなだけ飲み放題」というシステムは「欲張りによって調子を崩す」とも考えられます。
ドリンクバーで飲み物をたくさん注文した結果、いつも以上に水分やカフェインを摂り過ぎてお腹がゆるくなったこともあります。
自由が許されれば許されるほど、権利を使えば使うほど、個人や社会に不調をきたすことが考えられるのです。
そう考えると「出された水だけを飲む」か「飲みたいドリンクを注文するか(そして最後に水を飲み干す)」のどちらかでいいと思いました。
いろんな意味で節度が大事だと思うんです。
節度ある力と形は、個人や社会も不調をきたさない。
友人の中には「いつも仕事とか人付き合いとかで疲れているんで、そのくらいの自由くらいは自分に対して許してあげてもいいんじゃないか」と言います。
「水を残す」というくらい「大した問題にもならないし、誰でもやっていると思うし、社会に迷惑をかけているとは思えない」と主張します。
「もっと迷惑な人間に注目した方がいいのではないか?例えば、ドリンクバーを注文して、ドリンクを残す人とか…」とさらに悪い人間をあぶり出し、
「自分のやっていることは悪いことではない」と主張します。
また、そこから出てくる悪いと言われる人間にも言い分があるんです。
「なぜ、自分が”残し”をするのかというと”不味いものを出す”という店の姿勢に対して教育しているのだ」と言います。
そういう人間は「表現の自由」という権利を使い「言葉もしくは態度で不快感を示す」ということがあります。
「店はお客の言葉や態度や残しのあった現実を見て、勉強するものだ」と言います。
もっと悪いのは「何も考える能力の無い人間だ。その時の気分で食事やドリンクを注文し、食べれない、自分の口に合わないと思ったら残す。
教育目的の為でもなく、自分のわがまましでしか動かない、まるで何も考えていない人間はもっと悪い」
悪いと言われた人間から出てくる悪いと言われる人間の主張もあるのです。
「この食事には私がお金を支払っている。
お金を支払う人間には支配権があり、その支配権は絶対たるものであって誰からも侵害されることはない。
いいじゃないか。そういう人間がいるからこそ、経済活動が活発になるんだ。
ある意味、経済成長のためにはそういう人間が必要なのだ。
考えていない、考えられないわけではない。
そんな小さなことでウジウジ考えることなんてめんどくさいだけなんだ」
どの人間の言い分も正しいといえば正しいといえそうですし、わかるといえばわかるかもしれないです。
そこでいろんな人の話を聞いて、自分の位置はどういう立場で物事を考えているだとかを考え直してみてはと思います。
私としての意見は「ドリンクバーというシステムは店の品位を下げる」と思います。
「おしゃべりという目的の為に店を使う」という中途半端な人間が増え、目的たる「食事」についての集中力を欠きます。
「集中力を欠く」というのは、生命力の低下であります。
しかし、生命力を低下させることで「品位の低い存在が数多く集まる」ということができてしまうのであります。
「問題は品質ではなく量」という価値観からすると「お金にしたいのでお金になるシステムを使う」ということを考えるともいえます。
「プライドを下げて、大衆店にしたほうがいい」という価値観もあります。
社会が混乱し「その食事会は、食事を目的にしているのかおしゃべりを目的にしているのかよくわからなくなった」という時に
「大衆店に飲み放題システムができた」ともいえるかもしれないです。
「食事に対しての品位は下げたくないという店にはドリンクバーは置かれない」ともいえるでしょう。
どっちの道を選んでもいいかもしれないですが、何を選ぶにしても節度というものが大事なんです。
昔の日本は水1杯にせよ、無駄にしなかったでしょう。
食事の場でダラダラと世間話をすることもなかったでしょう。
そういう意味で、昔の日本は今の時代より品位が高く、数・形の認識が現代よりも強く知覚されていたのだと思います。
現代の日本は「飲食店に入ると水が自動的に出る」のが当たり前で、その現象に対してそれ以上を考えることができない。
それは「テーブルに出された1杯の水がある」ということに対してほとんど無自覚であるともいえるでしょう。
さらにいえば「それを飲まなければその水は捨てられてしまう(現実に殺しを働かせる)」という事実関係に対しても無自覚なのです。
「自動運動化されて無自覚になり、感じなくなる」というマジックの中に我々の生活はあるのです。
私はウィッチクラフトに興味があります。
なので、ウィッチクラフトの理論を使って現象を観察します。
「グラス(聖杯)に水が湛えられ、その水が全く飲まれもせず、捨てられる現象」というのは「水のエレメントを殺す」という「神への冒涜である」という象として捉えます。
この社会現象においては「祭壇=ファミレス」として置き換えて考えられます。
「水を捨てる(殺す)」という「社会に向けるショー」は「生贄(水)を殺す」というショーに置き換わります。
わたしは水のエレメントの亡霊(理性の元型たる数霊)をこの文書により蘇らせます。
わたしの意思はわたしの中にあると同時に、水のエレメントの中にあるともいえます。
別の言い方をすれば、水のエレメントは個人であると同時に社会でもあるのです。
この文書を読む人間の中には飲食店の経営者がいるかもしれないです。
「この日本社会の風潮において、席についてお客様に水を出さないわけにはいかない」という人もいるでしょう。
「そうしたいのならば、そうしてもいい」のです。
「汝の欲することをせよ。それが汝の法とならん。ただし、他の誰にも迷惑をかけてはならぬ」という確言の中に法が存在するのです。
もし、お客様が水を残したら「その水を洗い物に使う」とか「花壇に水を撒く」というような手段を使ったらいいのです。
「存在を捨てたり殺したりしない」を選ぶと「存在を何かの役割にバトンタッチする」という「死ではなく再生」に繋がるのです。
創意工夫した結果が生命になり続ける。
さらにウィッチらしいウィッチは「水に対してその都度お礼を言う」のです。
ひとつひとつの行為の始まりと終わりに儀礼が含まれるのです。
何をやっても儀式儀礼っぽくなってしまうのが、宗教がまだ生きている社会と人間のすることなのです。
我々の社会は、宗教心のようなものはもはやほぼ失われ「お金の力でしか生きていけない」と思い込んでいるような社会でもあります。
「お金の力でしか生きていけない」ゆえに考えられる「社会システム」にもまた「死または再生の法」があるのです。
個人意思によって自由を行使できる社会ほど見えないもの、感じられないものもある。
その人の選ぶ自由によって、返ってくる拘束があるのです。