出版社で働く30代 社員のBLOG

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広告の価格決定者は誰か?


問題:誰が商品の価格を決めるのか?

それは誰もが社会の授業で習った。
答えは「需要と供給のバランス」つまりは「市場」である。

今日は、雑誌の広告の市場で起きていることについて、少し書きたい。


広告主向けの雑誌の媒体資料には、雑誌の編集方針や読者データなどに付随して、必ず価格表が載っている。たとえば、カラー1ページ/80万円、表4/140万円といった具合だ。一見、もっともらしい金額が並んでいるようにも見えるが、これがじつはそうでもない。実際の雑誌の広告料金は「あってないようなもの」というのが実態である。なぜか?


それは雑誌広告スペースは、値引き販売があたりまえとなっているからである。自分の経験で言えば、広告主への取材フォローなど他のサービス要因がない一般的な広告出稿の場合、最終的に定価の6~5掛け程度の価格で取り引きが成立するケースが多い。いきなり半値である。それをベースとして、さらなる値引き交渉が行われることさえ少なくない。

これは、前述した対抗誌との「公称部数上乗せ競争」の一方で「価格引き下げ競争」が同時に進行してきたこともその原因ではある。しかしだからといって、定価とかけ離れた価格交渉が日常化しているのは、いったいどういうことなのか。


大胆な値引きが可能なのは、当初の価格設定にそもそも確たる根拠がないからだと言える。たとえば原価を考えた場合、ざっくり言って広告1ページ分の印刷コスト+営業マンの人件費程度しか要素がない(広告制作料金は別料金の場合が多いので原価には含めない)。であれば、いくら値引きをしたところで売り手が「痛み」を伴うことはない。

さらに雑誌に限らず印刷媒体全般にいえることだが、用意した広告スペースは締切までに埋めなければならない、という事情がある。最初は強気の価格交渉をしている広告担当も、締切が近づくにつれ、だんだんと残された営業日程が気になりだし、6割以上の値引きを始める。それでも広告主がつかず、さらには売上予算にも足りないとなれば、ついには「入らないよりはマシ」と7割、8割のディスカウントに応じることになるのである。

場合によっては枠を埋めるために広告主からビジュアルを借りるという事態さえ発生する。「ビジュアルを借りる」とは、相手が持っている広告原稿をタダで掲載するということだ。


これは特殊な例かもしれないが、広告主の懐事情と締め切り日までの残された日数が、価格の変動要因になっている現実がわかると思う。雑誌広告の定価の裏側には、これほどまでにアバウトで、媒体側の事情で劇的に変動する「実際の価格体系」があるということだ。

もちろん価格を維持するために、出版社側が毅然と価格の最低ラインを引き、広告が入らなかったときの差し替え記事を予め用意するなどして、広告枠の価格維持に努める選択肢もあるだろう。

しかしそれができるのは、雑誌事態の売上のみで、制作コストを十分に回収できている媒体だけである。収支バランスを大きく広告収入に依存する雑誌では「背に腹は代えられない」という事情のもと、少しでも目先の売上を確保するために大幅値引きという「麻薬」に手を染めることになるのである。


この麻薬は広告主の感覚をも麻痺させる。一度この大幅ディスカウントを経験すると、定価はもとより5掛けでスペースを買うのさえばかばかしくなる。結果、一度引き下げられた価格交渉のラインを再び上昇させるのは非常に困難となり、雑誌の広告収入は更に厳しくなっていくという悪循環を招くのである。

それでも広告投資に対するリターンが確実であれば、広告の価格決定権は出版社サイドが取り返せるはずである。ところが一度下落した価格が元に戻らないというのは、価格決定権が完全に広告主にあることを意味している。つまりは、雑誌に広告を打っても効果がないという現実が、この「買い手主導の価格拘束力」につながっている。


広告担当者がもっともらしい価格表を持ち、腹芸頼りの交渉をしたところで、価格を決めるのはやはり市場の原理である。厳しいがあたりまえの現実がそこにはあるのだ。



「消化しきれなかったもの」たちへ


出版社の社員でありながら、ある意味タブーとも言える雑誌の「公称部数」の問題について、続けざまに書いてきた。


もちろん業界の裏事情の暴露とか、ましてや会社のグチとか、そんなネガティブなことを書くためにこのブログを始めたわけではないし、だいたい自分はそういうことは好きではない。ただ、日々の業務の中で、どうしても自分の中で消化しきれないこともある。それをそのまま放置しておくわけにもいかず、ブログの匿名性を借りて、関心のある人々向けて投げかけてみたいと思ったのである。

それから、書くことで、自分自身の考え方や、その「消化しきれないもの」に対するスタンスを明確にできるのではないか?という期待もある。自分にとって、書くことはすなわち考えることであり、これは早速、一定の効果を得られそうだという手応えを得つつある。

自分は目下、転職を検討しているが、これは出版業界の裏事情を知って嫌気が差したからでもなければ、今の会社に対する不平不満が我慢の限界を超えたから、というわけでもない。もちろん聖人君子ではない俗人の自分にとって、会社の方針決定やその結果、自分の身に降りかかったことについて、何の不満もないではない。

しかし「起きていることはすべて正しい」という勝間和代氏の座右の銘を借りるまでもなく、自分にとって理不尽と思える事態が起こったとしても、それには必ず自らにも原因と責任がある、ということを、自分も受け入れているつもりである。

(そうしたことのいきさつの子細については、必要に応じて追々書いていくつもり)

とにかく、転職を考えている今、この業界に入ってから出会った「消化しきれなかったもの」について、改めて考えてみることが必要だと思っている。考えた末の自分なりの答えをブログで発信したところで、業界の現状に一石を投じることなどもちろんないだろう。それでも、少なくともそうした問題への態度をあいまいにしている、自分自身の現状になんらかの変化を与えることはできるはずである。


そうしたことを放置したまま今の会社(あるいは業界)を去り、次の場所に移ろうとするならば、自らのキャリアの成長を放棄することになる。だとすれば、そもそも転職を志す意味などないのである。



「公称20本入り」のタバコ

「公称20万部です!」

自分はこの言葉が苦手だ。


「公称」とは「表向き~となっている」という意味で、フツウは第三者が使う言葉である。しかし出版業界ではそれを当事者が使う。これがじつに気持ちわるい。そもそも公称部数は出版社サイドが発表しているものだから、「公称」ではなく「自称」と表現するのが正しいはず…。

ならば、試しにやってみよう。


「自称20万部です!」




…………。




…ダメだ! アヤシ過ぎる。。


「自称自営業」「自称作家」「自称コンサルタント」…。
新聞の三面記事でよく使われるこの言葉は「確認は取れないけど、本人はそういっています」という場合に使われていて、そもそも疑わしい場合にしか使わない言葉なのだ。

ところが「公称」と言われたとたんに、なんとなく裏付けがあるような、あるいは裏付けがなくても「わかりました」と素直に納得しなければならないような気分になるから不思議だ。



自分はこの世界に入って4年目。しかし、この「公称部数」という言葉にいまだに抵抗を覚えるのは、それが業界の常識であろうとなかろうと、やはり「インチキ」だと考えているからである。



読者にとってみれば公称何部の発行だろうと、実際に自分が買うのは1部だし、書店で払うのも雑誌1冊分のお金だからなんの問題もない。

ところが広告主にとってみれば、ここはまったく事情が違う。

たとえば20万部発行の雑誌に1ページ20万円の広告を出したのであれば、1部あたりの出稿単価は1円ということになる。雑誌が完売したとすれば、20万人の手元に広告を届けるために、1人あたり1円のコストをかけたという計算だ。

ところがこの公称20万部という雑誌の実売部数が、仮に半分の10万部であれば、コスト単価は倍の2円となる。そして仮に実売が2万部なら、広告主が負担するコスト単価は10倍に跳ね上がる。これでは出稿する方にしてみれば、広告戦略もへちまもあったものではない。



商売に関わる数字が、そんないいかげんなものであれば、フツウは困るはずである。

タバコ1箱を300円で買えば、1本あたり15円のそれが20本入っているのがあたりまえである。これが箱を開けたらたったの2本しか入ってなくて、1本単価150円だったら買った人は激怒する。だから「公称20本入り」なんていうタバコは、世の中にはないのである。



タバコなら、買った人が箱を開ければ中身の本数が確認できる。だが、これを実際に確認できないのが雑誌の部数だ。そんな危なっかしい買い物ではあるが、一度広告を出してみればその結果は確かめられる。実売部数まではわからないまでも、広告媒体としてその出稿単価に見合った価値があるかないかは、結局は容易に判別することになる。

そして、仮にその公称部数と実売部数の乖離が大きなものであれば、広告担当者はこう言って嘆くのだ。


「箱を開けてみれば反響ナシだよ…」