ハリケンジャーやパッチギ!など主演作品に恵まれている俳優の塩谷瞬さん。塩谷瞬さんの役者人生は順風満帆に見えますが、実際には壮絶な幼少期を過ごし、役者になってからも一筋縄ではいかない歩みを重ねてきました。しかし、その時の体験をプラスに転じさせるように、役者としてのスキルにつなげてきたことも事実。

俳優塩谷瞬を知る上で知っておきたい塩谷瞬さんのこれまでの歩みについてご紹介します。

壮絶な幼少期の中身

塩谷瞬
塩谷瞬さんのバックボーンとして、物心をついた時から塩谷瞬さんのお母さんは既にいなくなっており、お父さんともあまり関係が良くなかったという点が挙げられます。お父さん自身も決して教育熱心だったとは言い難く、学校に行くということも教育を受けてもらえず、低学年の時から不登校状態だったという塩谷瞬さん。

家にあまりいなかったお父さんは、1000円をテーブルの上に置いて家から出ていきましたが、何をどのように使えばいいのかという教育すら受けてこなかった塩谷瞬さんは大量のお菓子を買ってしまい、食べきれずに捨ててしまうことも。結果的に栄養失調となり、周りの大人に助けられてきました。

こうした無償の愛がとてもうれしかった塩谷瞬さんでしたが、お父さんが再婚したことで新たなお母さんと一緒に暮らすことができ、一時的に家庭のぬくもりを感じられました。しかし、そのお母さんすら出ていき、お父さんと2人きりになると関係性は悪化し、家財道具を投げ合う事態に発展。塩谷瞬さんは命からがら脱出し、1人で生きることを決めたのでした。
 

若くして店を切り盛りすることに

塩谷瞬
幼い時から新聞配達のバイトなどを行っていた塩谷瞬さん。お父さんと別れ、1人で生きることを決めた塩谷瞬さんは地元で働き始めます。働いていたのは地元のバー。若くして大人びた顔立ちだったこともあり、誰も未成年であることに気づかず、若くして店の経営を任されるようになります。

お店にやってくるのは地元の社長などステータス的に高い人ばかり。社長たちは目の前にいるのが未成年の塩谷瞬さんであることに気づいておらず、様々なことを語りかけていきます。塩谷瞬さんにとってそこでの経験がとても大きく、人生はいかに難しく、後先が見えないことなのかを痛感します。

そして、地元のゲームセンターに足を運んだ時、当時付き合っていた塩谷瞬さんの彼女がゲームセンターにあったマシンから応募できるオーディションに応募し、結果的に特別賞を獲得することに。若くしてバーを切り盛りする中で、周囲が役者として再スタートを切るよう促してくれたことで俳優になることを決意、上京を決断しました。
 

青年海外協力隊への参加

塩谷瞬
のちにハリケンジャーやパッチギ!など数々の主演作品を経験できた塩谷瞬さんでしたが、塩谷瞬さんの人生を左右する大きな出会いに直面します。それはJICAが展開した「なんとかしなきゃ!プロジェクト」への参加です。元々海外に行くのが好きで、世界中を回っていた塩谷瞬さん。アフリカ・ケニアにホームステイをした際、家族のつながりや日々を生き抜く厳しさに触れ、現実と向き合うことが必要であると感じ取り、「なんとかしなきゃ!プロジェクト」に参加します。

最初に訪れたのが当時独立してまだ時間が経過していなかった東ティモール。この東ティモールを訪れた塩谷瞬さんは日本の技術力が高いことを感じつつも、その地に住む人たちが前向きに暮らしていることに刺激を受け、作品として残していくべきではないかと考えるようになります。

その後ネパールにも行った塩谷瞬さんはその後発生したネパールでの大地震の復興活動に参加し、ネパールの親善大使を務めるなど、ボランティア活動に力を入れ始めます。もちろん役者としての活動を行いつつも、世界を飛び回り、現地に住む人たちの様子をカメラに納め続けていくなど、塩谷瞬さん自らができることを模索していきます。

壮絶な幼少期の体験があり、途上国に行くと子どもでも大変な思いをしているケースが多くみられ、何とかしなければ!という気持ちになった塩谷瞬さん。そのことが現在の原動力になっているといっても過言ではありません。


まとめ


塩谷瞬さん曰く、塩谷瞬さんのような体験は意外と芝居を行う人たちは色々と経験していると言います。そのバックボーンをいかにベースにして芝居に生かしていけるか、それが役者にとって大事なことなのかもしれません。だとすれば、塩谷瞬さんはそれがしっかりと行えており、ボランティア活動などを通じて自らが無償の愛をささげていく姿もとてもかっこよく、力強く生き続けている印象を受けます。