ラース・ビハーリー・ボースと言う人物をご存知でしょうか?
実はこの人、日本に“インドカレー”を伝えた人と言われています。
1900年の前半、インドはイギリスの植民地(南インドの一部はフランス領)でした。
植民地からのインド独立を企てた中心人物が“ラース・ビハーリー・ボース”です。
しかし、度重なる作戦の失敗などで、ボースはイギリス軍から追われる立場になってしまいます。
そこでボースは、1915年に国外逃亡を謀ります。
その逃亡先が、日本だった訳です。
偽名を使い、神戸まで辿り着いた訳ですが、登時インドを始め、シンガポール、香港などもイギリス領だったので、沢山の弊害があったようです。
当日、日本は“日英同盟”を結んでいたので、日本に着いてからもボースは追求を逃れられませんでした。
日本では、様々な方面からボースは逃亡の助けを借りたのですが、その中の一人に中村愛蔵と言う人物がいました。
この人物こそが、新宿中村屋の創業者なんです!
今でこそ“インドカリー”が有名な中村屋ですが、1907年の創業当時は“クリームパン”が有名なお店だったそうです。
当時の愛蔵は、ボースを家に匿い共に生活を送りました。
そして、1918年には愛蔵の孫娘、俊子と結婚し日本国籍を取得します。
日本名で『坊須』と名乗っていたそうです。
当時の日本のカレーはヨーロッパから伝わった、いわゆる『欧風カレー』が主流でした。
それを見たボースは
『本番のカリーは、こんなもんじゃない!!』
と違を唱え、1927年日本で初めて中村屋から『インドカリー』が発売された訳です。
欧風カレーは10~15銭程度だったのに対し、インドカリーは“80銭”とかなり高価だったのにも関わらず、連日列をなす大人気だったそうです。
この辺のいきさつを、詳しく知りたい方は、中島岳志著『中村屋のボース』を読んでみて下さい。
結局ボースは、インド独立を見届ける事なく他界してしまいます。
ボースが日本の“カレーの歴史”に一石を投じたのは言うまでもありませんが、こうした歴史がある事を知った上で、中村屋でカレーを食べれば、より美味しく頂けるんじゃないでしょうか。
今も変わらぬ中村屋の“インドカリー"を、ゆっくりと味わいに行きたいと思います。
実はこの人、日本に“インドカレー”を伝えた人と言われています。
1900年の前半、インドはイギリスの植民地(南インドの一部はフランス領)でした。
植民地からのインド独立を企てた中心人物が“ラース・ビハーリー・ボース”です。
しかし、度重なる作戦の失敗などで、ボースはイギリス軍から追われる立場になってしまいます。
そこでボースは、1915年に国外逃亡を謀ります。
その逃亡先が、日本だった訳です。
偽名を使い、神戸まで辿り着いた訳ですが、登時インドを始め、シンガポール、香港などもイギリス領だったので、沢山の弊害があったようです。
当日、日本は“日英同盟”を結んでいたので、日本に着いてからもボースは追求を逃れられませんでした。
日本では、様々な方面からボースは逃亡の助けを借りたのですが、その中の一人に中村愛蔵と言う人物がいました。
この人物こそが、新宿中村屋の創業者なんです!
今でこそ“インドカリー”が有名な中村屋ですが、1907年の創業当時は“クリームパン”が有名なお店だったそうです。
当時の愛蔵は、ボースを家に匿い共に生活を送りました。
そして、1918年には愛蔵の孫娘、俊子と結婚し日本国籍を取得します。
日本名で『坊須』と名乗っていたそうです。
当時の日本のカレーはヨーロッパから伝わった、いわゆる『欧風カレー』が主流でした。
それを見たボースは
『本番のカリーは、こんなもんじゃない!!』
と違を唱え、1927年日本で初めて中村屋から『インドカリー』が発売された訳です。
欧風カレーは10~15銭程度だったのに対し、インドカリーは“80銭”とかなり高価だったのにも関わらず、連日列をなす大人気だったそうです。
この辺のいきさつを、詳しく知りたい方は、中島岳志著『中村屋のボース』を読んでみて下さい。
結局ボースは、インド独立を見届ける事なく他界してしまいます。
ボースが日本の“カレーの歴史”に一石を投じたのは言うまでもありませんが、こうした歴史がある事を知った上で、中村屋でカレーを食べれば、より美味しく頂けるんじゃないでしょうか。
今も変わらぬ中村屋の“インドカリー"を、ゆっくりと味わいに行きたいと思います。